新宮一成『夢分析』

 人間になったということは、赤ん坊から見れば高い空のような、言語が飛びかう平面に躍りでたということを意味している。言葉を話せるようになったのだ、という自覚は、空に達したという感覚として登録される。空飛ぶ夢は、飛んでいる我々に、不思議な感じを起させない。それは、この夢が、「今自分は言葉を話せるようになって、人間になったのだ」と知った瞬間の記憶そのものであって、誰にでも備わっているからである。

 その記憶はなぜ「人間になった」という意識そのままの記憶でなく、「空を飛ぶ」という映像の形でしか残らないのか。それは、「もとは人間ではなかった」という記憶を同時に含むことになるからである。「人間でなかった」という記憶は苦しいし、それに形式的に見ても、人間の言葉を話せなかったときの記憶なのだから、言葉になりようがない。

 その苦しい記憶が形になるとき、「その記憶から脱出できた」という悦ばしい側面だけが、明確な飛行の姿をとる。しかし「今空を飛んでいる」という夢が、「この直前まで、自分は人間の言葉を話せなかった」という否定の重みを引きずっていることは隠せない。ちなみにこの否定の重みを表現するのは、むろん夢だけではない。『ピノキオ』や『人魚姫』などの童話は、「人間ではない」ということがどれほど大きな受難であったかを、すでに人間であることが当たり前であると思っている人たちに、思い出してもらうためにあるのだ。

ある種の「差別」や「いじめ」は、「人間でなかった」頃のトラウマを他人に投影する行為なのではないか?

 「やまゆり園」での事件にも関係していそうである(犯人は「しゃべれない(と思った)」人間だけを狙っている)。

 我々は言葉そのものは有害でも有益でもない中立的なものだと思っている。そこに乗せられている意味が、たまたま悪いものだということはあっても、それは自分にとってそうなのであって、言葉それ自体が邪悪なものだとは、ふつう我々は思わない。けれども、我々が意味の分からない言葉を聞かされていた 幼い頃には、おそらくそれによって身を切られるような苦痛を味わっていたのではないだろうか。

外国人に対する嫌悪(恐怖)にはこういう要素があるのではないだろうか?

 

 言葉を話して生きている我々にとって、言葉がなくなれば、世界はあまりにも間近に迫ってくる。我々は絶えざる脅迫の中に生きることになるだろう。追いつめられると、人は言葉の中に逃げる。言葉によって自己を見つめ、それを砦としてしばし生き延びようとする。

「言葉」だけでなく「お金」についても同じことが言えるのではないか?

 

ちなみにここでの男性性器は、性差を示しこそすれ、生殖との関係が非常に薄くなってしまっている。この理由は、幼児にとっては、肉体的器官としてのペニスは、誰かが何かの理由で人間につけた特殊な印として扱われるからである。このような印としての機能を帯びた男性性器は、精神分析理論では特別な位置づけが与えられ、ギリシャ語を借りて「ファルス」と呼ばれている。

 

夢において真の「女性性」があるとすれば、それは結局隠しおおされた「胡麻豆腐」によって象徴される何かである。それは、先ほど述べたような、幼年期において母親にもあると想像されたファルス、いわば「無いけれどもあるはずの、空即是色のような不思議なファルス」である。母親と同じ「女性性」を獲得するということは、単純にファルスを手放すことではなく、男にあるようなそれを退け、神話的に創造されたこのファルスをもつ母に同一化することである。

 女性が「見えそうで見えない」ような服装を好んで(?)することと関係あるのだろうか…?

 

 人間は、ごく早期に、受動的な体験を能動的な体験に変換し、しかもその変換を忘却する。すなわち、私は誰かによって「生まれ」た、つまり私を生んだ誰かがそこに在ったのであるが、私は、今度は自ら、その誰かの立場に立ち、その誰かが私に対してもっていたであろうような関係を、私自身に対して、意識の外から、演ずるようになる のである。

 この変換の場に、フロイトエディプス・コンプレックスの名で標識を立てたのである。この誰かというのは、父によって示される場所に他ならず、この場所において、私は、私自身を母から産ませる力を父から奪い取り、父を亡きものにして父になりかわったのである。エディプス・コンプレックスは、「父との同一化」と呼ばれるこのような変換過程によって、私を生ませた他者の欲望を、私が私自身に対してもつ欲望へと、構成してゆくことなのである。

根本敬の「タケオの世界」を連想。

 

 これらの構成にあたって、私は、私自身から抜けだして、他者の場へと移行しなければならない。私が生きているということを欲しているような、そういう他者として、私は、私自身の生存を欲することになる。私の生存は、たとえそれがありのままに与えられていても、 それだけでは人間の生存ではない。私の生存を私の外側から認知する他者があって、しかもその他者の場に私が立って初めて、私の生存は人間の生存となる。