圧倒的に困らせるような思考で自分たちの精神生活を悩ませたり、真の親密さを確立するために、原初的な心の状態を他者に強いて、終わりのない苦痛に満ちた会話で他者の心の中に干渉する。
(略)
境界例の対象は、情緒的な衝撃を与える刺激として機能して、それに誘発されて感覚が引き起こされる。 そうして境界例の人は、他者と境界例的な対象を分ち合おうと、他者に最大限の情緒的な衝撃を引き起こすように謀られた話題を持ち出し、他者の立場上の弱点をつく。 自己と他者は苦悩を共有することで短時間融合するのであるが、通常な人は悩みを祭典に変化させることを拒むのである。 精神的苦痛とは、自己を混乱させる他者であるとともに、自己による現実性の把握でもある。
ウィニコットは、この世は生きるに値すると感じさせるものは、何よりも創造的な統覚であると書いているが、彼は、創造的な生き方を困難にしているのは人間の主観性の障害であると述べる。 客観的に知覚できる現実に余りにもしっかりと錨で固定さているために、主観的世界に疎く、事実に創造的に取り組むことからも遠ざけるているような人もいる。 普通でありたいという際立った欲動の特徴は、自己を対象世界の中で人間が作り出した製品に囲まれた、一つの具体的対象と見なすために、主観性を麻痺させ、最終的には消去してしまうことである。 主観的要素の部分的欠損を特徴とする人格障害が増えている。
(略)
精神病が、現実見当識の断絶や現実社会との接触の喪失で特徴でくられるとすれば、規範病は、主観性の極端な破壊や、日々の主観的要素の完全な欠如によって特徴づけられる。 精神病が、空想と幻覚の世界にのめり込んで内に向かうことが際立つのに対し、規範病は、具体物に没頭して外へと向かい、慣習的な振舞いへと方向を変えることが特徴である。 規範的な人は、夢のような人生や主観的な心的状態、想像力に富んだ生き方や、好戦的な一対一のゲームから逃れる。 精神病が「gone off at the deep end」なら、規範病は「gone off at the shallow end」と言える。
(略)
【結論】 健常者の軸に沿って横たわって、異常なまでに正常な人がいることに気付く。 彼らの思考や願望は、客観的であるということが、並外れて深く染み込んでいる。 主観的に生ける自己を絶やしてしまうことで、異常なほどに正常な状態に到達する。 規範的な人は、有形の事象を洗練させる中で、自分自身のためにも他者のためにも、客体となっていく。 それは主体のない客体、物質世界で生き生きとして幸せな客体なのである。 心とは、特に無意識とは時代遅れなものであり、人間の進歩のためには、置き去りにされる事柄なのである。
~乳児の投影同一化の容れ物として母親が役割を果たさなければ、乳児は自閉的なあるいは精神病的な存在に運命づけられてしまいかねない。
ビオン(1959,1962a)は、母親が乳児の投影同一化を受け容れることができない、あるいはそうしたがらないことを、「連結への攻撃attack on linkage」と呼ぶ。
このふるまいがやがて乳児に内在化され、思考を連結し他者との情緒的な結びつき(連結)を生成しようとする努力に対する、自己に向かう攻撃の形をとる。
また、野間(2010)は摂食障害を他の依存症と比較しながら、摂食障害における自己愛を「積極的な自己愛」、つまり「周囲世界の支配を志向」し、「他者とともに生きようとしても、そこで他者への対抗心が 惹起されて逆に孤立を深めて」しまう自己愛であると指摘する。それは自他の一体化願望としての希求 であるが、それは得られるものではなく、そのためやせへの希求にすり替えられる。摂食障害者の場合 は、本来的にもっている深い自己愛のために、他者と繋がることではなく他者から一方的に愛されることを望んでいると指摘する。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/189298/1/eda60_249.pdf
治療者がクライエントになんらかのナルシシズムを感じる時、それは治療者が疎外を体感しているこ とと同義であろう。それは上田(2012)が、ナルキッソスにとっての水辺の像は「実体なく、決して交わることのない虚像の他者」であり、「自分で自分を愛していると言うことに気づけず、他者を愛している」という誤認によって「自己からも他者からも決定的に隔てられている」と述べることと近しいと考えられる。 摂食障害における二重性は、他者が関わり得ないのと同様、彼女らもまた、彼女自身らから隔てられているのである。摂食障害におけるナルシシズムは、他者を疎外し、自己への耽溺を示しながら、自己に 触れ得ないというほとんど悲劇的な状況を引き起こすものであると言える。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/189298/1/eda60_249.pdf
Kohutへの批判は、彼の論文「Z氏の二つの分析」を取り上げて行われる。そこでKohutは、自分が或る青年Zに行なった二度の精神分析において、最初古典的自我心理学の枠で分析したために見逃された共感的な自己対象への欲求が、二回目の自己心理学的分析によってどう理解されるようになったかを記述している。そこにCaperが見る問題は、どちらの分析でも前分析者の問題(理論とモラルの押し付け)と患者の母親の問題(パラノイアに罹り自分の欲求不満を患者に満たさせようとした)ばかりが取り上げられ、それを患者の投影同一化として理解していない点である。つまり、患者の外に悪い対象を作り上げて、パーソナリティの分裂(患者の破壊性を排除すること)を促している点である。その結果、対象は本当に依存するには危険なままとなり、患者には自己愛的傾向が残っている。
Freudは小児性欲と倒錯を同列に扱うことによって、後者の本質的な破壊性に目をつぶったことになった。その点を明らかにしたのは、Meltzer及びStollerである。倒錯は成長の可能性を含んだ愛情の原始的形態ではなく、対象関係を破壊するものである。これを指摘することが苦痛を伴い回避されがちなのは、その解釈が患者に、自分の「妄想」が如何に成長を阻害してきたかを直面させるからである。Caperは、ここで必要なのは回避ではなくtactであると述べている。
タヴィストックでうるさく言われることの一つは、精神療法の本質が自分と異質なものとの交わりsymbolic intercourseなことである。もう一つは、三者関係が常に最初から存在することである。おそらく単なる二者関係というものはなく、それを支える第三者すなわち構造が意識されていないだけである。二者関係の中では原理的に、患者がどこまで正しいか、迎合しているか不当な要求をしているか決め難い。二者関係の安定には、距離を何らかの形で調節する第三項が不可欠である。治療者の直観的な理解は、実は内的なカップルに基づいている。純粋な二者関係はむしろ病理的で、治療者がそう思うときは、現実を何らかの形で否認していないか、患者の病理によって万能的な母親の役割をとらされていないか考えた方がいいかもしれない。しかしこれは、また別の機会に展開すべき主題だろう。
http://home.u02.itscom.net/fukumoto/hp/shyohyo/archives/imago96-6.html
自己愛についてはある程度詳細に研究していくうちに、私は自己愛のリピドー的な側面と破壊的な側面とを区別していくことが本質的であると考えるようになった。自己愛のリピドー的な側面ということでは、主として自己の、理想化は根差した自己の過大評価が中心的な役割を果たしていることに気づかされる。自己の理想化は、理想的な対象とその属性の万能感的な投影同一視と取り入れ同一視によって維持される。このやり方によってナルシストは外的な対象や外界の価値あるものはすべて自分の一部分であるか、自分によって万能感的にコントロールされるものであると感じる。
ローゼンフェルト(Rosenfeld,1964)は、「自己愛的対象関係のもっとも重要な機能は、主体と対象の分離体験を回避することにある」と論じている。投影同一視および取り入れによる同一化により、自己愛的な患者は、対象に属している望ましい特質を自らのものとし、自分で望ましくない取り入れを排出する。 このため患者は、真に分離した対象との関係を発展させることができなくなる。自己愛的患者は自分自身から独立した対象に関わるのではなく、むしろ対象に依存していることを否認し、あたかも自分に必要な性質とこころの栄養をすべて自分がもっているかのようにふるまう。 もしこの患者がこの万能的な自己充足感を失うと、依存的で、愛情に飢えているneedyという感情に触れることになり、不安を喚起させられる。 もし対象が彼を欲求不満に陥れるなら、患者は怒りと失望で応えるが、他方対象の良さへの愛情と依存心に気づくと、患者は自分の羨望に直面することになる。
治療が進展すると、このobserving objectが出現することになるが、この対象が迫害的な対象として体験されると恥の感覚がワークスルーできなくなり、抑うつポジションに到達できなってしまう。この例としては、ある男性患者の治療があげられる。彼の治療が進展する中で、その患者が他者へ自然な情愛を向けることが可能になりはじめた。しかしこの自然なやさしさが芽生えたことを、彼は女性的なものと感じてしまい、そのために彼の劣等感が刺激されて恥の感覚が生じ、元のこころの退避の状態に戻ってしまった。ここをワークスルーするには、観察される体験にともなう感情について、繰り返しとりあげていくことが必要であった。
以上、本論文は、パラノイアの妄想形成の機制において、自分自身の攻撃的な感情を他者に投影して、人の’せいにする’というメカニズムがこれまで強調されてきたが、その逆に、何でも自分の’せいにする’という自責、罪悪感が、被害的関係妄想の核心にあることを示したものである。さらにそれが因果性の思考を歪曲し、妄想を生み出すことをも示しており、’せいにする’という機制を通じて、パラノイアにおける感情と思考の障害についての統合的な理解を可能にしたものであって、学位の授与に値するものと考えられる。
「パラノイアの精神分析的研究 : ’せいにする’ことをめぐって」
http://gakui.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/cgi-bin/gazo.cgi?no=212296
これは破壊性や攻撃性が理想化され、健康な自我の部分を脅迫し、コントロールし、支配する。普段は目立たないが、人格そのものをのっとり、裏から支配している。現状維持が目論まれ、変化することや成長することが危険なことであると認識し、そのような事態になりかけると陰性治療反応が発動し、もとの状態に戻してしまうのである。
三島由紀夫の『愛の渇き』の結末っぽい
ラカンが自我心理学を批判したのは、自我心理学では治療というものが自我の所与の社会に適応するという点である。ここでいう所与の社会とは、主観的な幻想という意味でなく、社会というものが想像的で鏡像的な論理に沿って形成されるということである。社会とは、自我と他者、友と敵という鏡像的な反射のなかで、いくらでも容易に反転するものである。想像的な他者、もうひとつの自我である敵の姿は、もちろん自我にそっくりなのである。分析家は、患者を社会的な地位に戻したときに、自らに有能な分析家の位置を与え、金銭的報酬を得る。分析家が患者に対して抱く共感は、患者の自我を分析家の自我の姿似にたいという支配欲であり、ナルシシズムの成就が終結となる。分析家は、分析の終わりに知らない場所に迷い出ることはないのである。
⑧「このS、つまり私達が徹底的にそれであるこの主体(sujet)について話す方法は、二つしかありません。ひとつは他者(A)、つまり大文字のAの他者に真に語り掛け、皆さんに関係するメッセージをひっくり返った形で受け取る方法。そしてもう一つは、このSの方向、Sの実在を暗示という形で示す方法です。この患者が真にパラノイア患者であるのは、この回路が彼女にとって、大文字の他者(A)の除名を示しているからです。この回路は二つの小文字の他者だけで閉じています。この二つの小文字の他者は、一方は彼女と向かい合っている話すマリオネット、彼女自身のメッセージがその中で彼女にこだまするマリオネットであり、もう一方は彼女自身、すなわち自我という限りで常に他者であり暗示によって語る彼女自身です。」 大文字の他者(A)は目の前の個人ではなく、そうした現実の向こうにある還元不能な絶対者である。この他者(A)が設立されているからこそ、「あなたは私の師」と言った場合、「私はあなたの弟子」というメッセージを受け取ることができる。これが正常者の場合。しかし、精神病者の発した言葉は、大文字の他者がない(象徴界が壊れている)ので、象徴界によって意味づけられたメッセージを受け取ることはない。その言葉は目の前の具体的な他者との二者関係(双数関係)の中で閉じているのである。