メモ帳2

 

圧倒的に困らせるような思考で自分たちの精神生活を悩ませたり、真の親密さを確立するために、原初的な心の状態を他者に強いて、終わりのない苦痛に満ちた会話で他者の心の中に干渉する。

(略)

境界例の対象は、情緒的な衝撃を与える刺激として機能して、それに誘発されて感覚が引き起こされる。 そうして境界例の人は、他者と境界例的な対象を分ち合おうと、他者に最大限の情緒的な衝撃を引き起こすように謀られた話題を持ち出し、他者の立場上の弱点をつく。 自己と他者は苦悩を共有することで短時間融合するのであるが、通常な人は悩みを祭典に変化させることを拒むのである。 精神的苦痛とは、自己を混乱させる他者であるとともに、自己による現実性の把握でもある。

in and out program | 心の干渉と境界例の欲望

 

 ウィニコットは、この世は生きるに値すると感じさせるものは、何よりも創造的な統覚であると書いているが、彼は、創造的な生き方を困難にしているのは人間の主観性の障害であると述べる。 客観的に知覚できる現実に余りにもしっかりと錨で固定さているために、主観的世界に疎く、事実に創造的に取り組むことからも遠ざけるているような人もいる。 普通でありたいという際立った欲動の特徴は、自己を対象世界の中で人間が作り出した製品に囲まれた、一つの具体的対象と見なすために、主観性を麻痺させ、最終的には消去してしまうことである。 主観的要素の部分的欠損を特徴とする人格障害が増えている。

(略)

 精神病が、現実見当識の断絶や現実社会との接触の喪失で特徴でくられるとすれば、規範病は、主観性の極端な破壊や、日々の主観的要素の完全な欠如によって特徴づけられる。 精神病が、空想と幻覚の世界にのめり込んで内に向かうことが際立つのに対し、規範病は、具体物に没頭して外へと向かい、慣習的な振舞いへと方向を変えることが特徴である。 規範的な人は、夢のような人生や主観的な心的状態、想像力に富んだ生き方や、好戦的な一対一のゲームから逃れる。 精神病が「gone off at the deep end」なら、規範病は「gone off at the shallow end」と言える。

(略)

【結論】 健常者の軸に沿って横たわって、異常なまでに正常な人がいることに気付く。 彼らの思考や願望は、客観的であるということが、並外れて深く染み込んでいる。 主観的に生ける自己を絶やしてしまうことで、異常なほどに正常な状態に到達する。 規範的な人は、有形の事象を洗練させる中で、自分自身のためにも他者のためにも、客体となっていく。 それは主体のない客体、物質世界で生き生きとして幸せな客体なのである。 心とは、特に無意識とは時代遅れなものであり、人間の進歩のためには、置き去りにされる事柄なのである。

in and out program | 規範病

 

 ~乳児の投影同一化の容れ物として母親が役割を果たさなければ、乳児は自閉的なあるいは精神病的な存在に運命づけられてしまいかねない。

  ビオン(1959,1962a)は、母親が乳児の投影同一化を受け容れることができない、あるいはそうしたがらないことを、「連結への攻撃attack on linkage」と呼ぶ。

  このふるまいがやがて乳児に内在化され、思考を連結し他者との情緒的な結びつき(連結)を生成しようとする努力に対する、自己に向かう攻撃の形をとる。

 この過程は、ビオン(1959)によれば、分裂病やその他の重篤な情緒障害の病因の本質的な要素である。~

https://ka-gu.hatenablog.com/entry/2019/12/16/214551

 

 また、野間(2010)は摂食障害を他の依存症と比較しながら、摂食障害における自己愛を「積極的な自己愛」、つまり「周囲世界の支配を志向」し、「他者とともに生きようとしても、そこで他者への対抗心が 惹起されて逆に孤立を深めて」しまう自己愛であると指摘する。それは自他の一体化願望としての希求 であるが、それは得られるものではなく、そのためやせへの希求にすり替えられる。摂食障害者の場合 は、本来的にもっている深い自己愛のために、他者と繋がることではなく他者から一方的に愛されることを望んでいると指摘する。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/189298/1/eda60_249.pdf

 

 治療者がクライエントになんらかのナルシシズムを感じる時、それは治療者が疎外を体感しているこ とと同義であろう。それは上田(2012)が、ナルキッソスにとっての水辺の像は「実体なく、決して交わることのない虚像の他者」であり、「自分で自分を愛していると言うことに気づけず、他者を愛している」という誤認によって「自己からも他者からも決定的に隔てられている」と述べることと近しいと考えられる。 摂食障害における二重性は、他者が関わり得ないのと同様、彼女らもまた、彼女自身らから隔てられているのである。摂食障害におけるナルシシズムは、他者を疎外し、自己への耽溺を示しながら、自己に 触れ得ないというほとんど悲劇的な状況を引き起こすものであると言える。 

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/189298/1/eda60_249.pdf

 

  Kohutへの批判は、彼の論文「Z氏の二つの分析」を取り上げて行われる。そこでKohutは、自分が或る青年Zに行なった二度の精神分析において、最初古典的自我心理学の枠で分析したために見逃された共感的な自己対象への欲求が、二回目の自己心理学的分析によってどう理解されるようになったかを記述している。そこにCaperが見る問題は、どちらの分析でも前分析者の問題(理論とモラルの押し付け)と患者の母親の問題(パラノイアに罹り自分の欲求不満を患者に満たさせようとした)ばかりが取り上げられ、それを患者の投影同一化として理解していない点である。つまり、患者の外に悪い対象を作り上げて、パーソナリティの分裂(患者の破壊性を排除すること)を促している点である。その結果、対象は本当に依存するには危険なままとなり、患者には自己愛的傾向が残っている。

http://home.u02.itscom.net/fukumoto/hp/shyohyo/13caper.html

 

 Freudは小児性欲と倒錯を同列に扱うことによって、後者の本質的な破壊性に目をつぶったことになった。その点を明らかにしたのは、Meltzer及びStollerである。倒錯は成長の可能性を含んだ愛情の原始的形態ではなく、対象関係を破壊するものである。これを指摘することが苦痛を伴い回避されがちなのは、その解釈が患者に、自分の「妄想」が如何に成長を阻害してきたかを直面させるからである。Caperは、ここで必要なのは回避ではなくtactであると述べている。

http://home.u02.itscom.net/fukumoto/hp/shyohyo/13caper.html

 

 タヴィストックでうるさく言われることの一つは、精神療法の本質が自分と異質なものとの交わりsymbolic intercourseなことである。もう一つは、三者関係が常に最初から存在することである。おそらく単なる二者関係というものはなく、それを支える第三者すなわち構造が意識されていないだけである。二者関係の中では原理的に、患者がどこまで正しいか、迎合しているか不当な要求をしているか決め難い。二者関係の安定には、距離を何らかの形で調節する第三項が不可欠である。治療者の直観的な理解は、実は内的なカップルに基づいている。純粋な二者関係はむしろ病理的で、治療者がそう思うときは、現実を何らかの形で否認していないか、患者の病理によって万能的な母親の役割をとらされていないか考えた方がいいかもしれない。しかしこれは、また別の機会に展開すべき主題だろう。

http://home.u02.itscom.net/fukumoto/hp/shyohyo/archives/imago96-6.html

 

自己愛についてはある程度詳細に研究していくうちに、私は自己愛のリピドー的な側面と破壊的な側面とを区別していくことが本質的であると考えるようになった。自己愛のリピドー的な側面ということでは、主として自己の、理想化は根差した自己の過大評価が中心的な役割を果たしていることに気づかされる。自己の理想化は、理想的な対象とその属性の万能感的な投影同一視と取り入れ同一視によって維持される。このやり方によってナルシストは外的な対象や外界の価値あるものはすべて自分の一部分であるか、自分によって万能感的にコントロールされるものであると感じる。

梅の花と、『第6章 破壊的な自己愛と死の本能』(治療の行き詰まりと解釈より』 - うたた ka-gu’s diary

 

ローゼンフェルト(Rosenfeld,1964)は、「自己愛的対象関係のもっとも重要な機能は、主体と対象の分離体験を回避することにある」と論じている。投影同一視および取り入れによる同一化により、自己愛的な患者は、対象に属している望ましい特質を自らのものとし、自分で望ましくない取り入れを排出する。 このため患者は、真に分離した対象との関係を発展させることができなくなる。自己愛的患者は自分自身から独立した対象に関わるのではなく、むしろ対象に依存していることを否認し、あたかも自分に必要な性質とこころの栄養をすべて自分がもっているかのようにふるまう。 もしこの患者がこの万能的な自己充足感を失うと、依存的で、愛情に飢えているneedyという感情に触れることになり、不安を喚起させられる。 もし対象が彼を欲求不満に陥れるなら、患者は怒りと失望で応えるが、他方対象の良さへの愛情と依存心に気づくと、患者は自分の羨望に直面することになる。

https://ka-gu.hatenablog.com/entry/2019/07/05/195444

 

 治療が進展すると、このobserving objectが出現することになるが、この対象が迫害的な対象として体験されると恥の感覚がワークスルーできなくなり、抑うつポジションに到達できなってしまう。この例としては、ある男性患者の治療があげられる。彼の治療が進展する中で、その患者が他者へ自然な情愛を向けることが可能になりはじめた。しかしこの自然なやさしさが芽生えたことを、彼は女性的なものと感じてしまい、そのために彼の劣等感が刺激されて恥の感覚が生じ、元のこころの退避の状態に戻ってしまった。ここをワークスルーするには、観察される体験にともなう感情について、繰り返しとりあげていくことが必要であった。

ジョン・スタイナーの恥に関する考察 - Gabbardの演習林

 

 以上、本論文は、パラノイアの妄想形成の機制において、自分自身の攻撃的な感情を他者に投影して、人の’せいにする’というメカニズムがこれまで強調されてきたが、その逆に、何でも自分の’せいにする’という自責、罪悪感が、被害的関係妄想の核心にあることを示したものである。さらにそれが因果性の思考を歪曲し、妄想を生み出すことをも示しており、’せいにする’という機制を通じて、パラノイアにおける感情と思考の障害についての統合的な理解を可能にしたものであって、学位の授与に値するものと考えられる。

 

パラノイア精神分析的研究 : ’せいにする’ことをめぐって

http://gakui.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/cgi-bin/gazo.cgi?no=212296

 

これは破壊性や攻撃性が理想化され、健康な自我の部分を脅迫し、コントロールし、支配する。普段は目立たないが、人格そのものをのっとり、裏から支配している。現状維持が目論まれ、変化することや成長することが危険なことであると認識し、そのような事態になりかけると陰性治療反応が発動し、もとの状態に戻してしまうのである。

陰性治療反応の分析への寄与 | (株)心理オフィスK

三島由紀夫の『愛の渇き』の結末っぽい

 

 ラカンが自我心理学を批判したのは、自我心理学では治療というものが自我の所与の社会に適応するという点である。ここでいう所与の社会とは、主観的な幻想という意味でなく、社会というものが想像的で鏡像的な論理に沿って形成されるということである。社会とは、自我と他者、友と敵という鏡像的な反射のなかで、いくらでも容易に反転するものである。想像的な他者、もうひとつの自我である敵の姿は、もちろん自我にそっくりなのである。分析家は、患者を社会的な地位に戻したときに、自らに有能な分析家の位置を与え、金銭的報酬を得る。分析家が患者に対して抱く共感は、患者の自我を分析家の自我の姿似にたいという支配欲であり、ナルシシズムの成就が終結となる。分析家は、分析の終わりに知らない場所に迷い出ることはないのである。

in and out program | オートポイエーシス(自己生産)

 

⑧「このS、つまり私達が徹底的にそれであるこの主体(sujet)について話す方法は、二つしかありません。ひとつは他者(A)、つまり大文字のAの他者に真に語り掛け、皆さんに関係するメッセージをひっくり返った形で受け取る方法。そしてもう一つは、このSの方向、Sの実在を暗示という形で示す方法です。この患者が真にパラノイア患者であるのは、この回路が彼女にとって、大文字の他者(A)の除名を示しているからです。この回路は二つの小文字の他者だけで閉じています。この二つの小文字の他者は、一方は彼女と向かい合っている話すマリオネット、彼女自身のメッセージがその中で彼女にこだまするマリオネットであり、もう一方は彼女自身、すなわち自我という限りで常に他者であり暗示によって語る彼女自身です。」 大文字の他者(A)は目の前の個人ではなく、そうした現実の向こうにある還元不能な絶対者である。この他者(A)が設立されているからこそ、「あなたは私の師」と言った場合、「私はあなたの弟子」というメッセージを受け取ることができる。これが正常者の場合。しかし、精神病者の発した言葉は、大文字の他者がない(象徴界が壊れている)ので、象徴界によって意味づけられたメッセージを受け取ることはない。その言葉は目の前の具体的な他者との二者関係(双数関係)の中で閉じているのである。

in and out program | エクリ

 

 

 

内海建「自分が悪であることにより、相手が善となるということ、これが気分障害圏の患者の落ち着く先です。」

内海健うつ病の心理』より

 

自らの苦境をすべて「自己責任」だと考える(自分が悪い)ことにより、政府や社会が善になる、という思考プロセスが存在するのではないだろうか。(誰に?)

藤田省三 自分が所属している集団への強すぎる愛 日本人の集団ナルシシズム 

堀有伸氏が「日本的ナルシシズム」と呼んでいるものでしょうが。

 

藤田省三現代日本の精神」(1990)より

(太字強調引用者)

 いま日本ではみんなの関心がいわゆる「経済問題」実はカネ儲けにだけ集中している。カネといっても今のカネは、動物学者コンラート・ローレンツの言う「記号の記号」にすぎない。もともとは物と物を交換する時の手段であったものが、いまではそれ自身が売買の目的になり、またそのことに日本中が熱中しているというわけです。「記号の記号」という表面的な物の獲得競争への熱中、そこで制覇することへの欲求が支配的になっている。人間の行為には精神的動機のない行為というものはほとんどない。動物は、遺伝的にプログラムされていますから、してはならないことはしないんです。人間は放って置くと、してはならないこともする。だからこそ逆に人間には倫理が必要とされているんですが、表面的な物への熱中はその倫理を投げ捨てさせます。倫理というのは内側からのブレイキなんだから。 では、倫理的なブレイキとは何か。その基礎は反省能力、自己批判能力です。そしてこの自己批判能力をいちばん欠いている国民は誰かというと、僕の知っている限りでは、日本国民をおいてはいない。先年亡くなった西ドイツのカール・レービットは戦争中日本にいて軟禁状態におかれていた。彼は戦後間もなくこう書いています。日本人の精神的特徴は自己批判を知らないということである。あるのは自己愛、つまりナルシシズムだけである、と。その指摘はいよいよ表面化されてきたと思います。 その点をさらに突込んでいうと、個人としての自己愛であればエゴイスムになり、したがって自覚がありますが、日本社会の特徴は、自分の自己愛を自分が所属する集団への献身という形で表す。だから本人の自覚されたレベルでは、自分は自己犠牲をはらって献身していると思っている。その献身の対象が国家であれば国家主義が生まれ、会社であれば会社人間が生まれて、それがものすごいエネルギーを発揮する。しかしこれはほんとうはナルシシズムであって、自己批判の正反対のものなのです。錯覚された自己愛、ナルシシズムの集団的変形態であって、所属集団なしに自己愛を人の前に出すほどの倫理的度胸はない。ほんとうに奇妙な状態です。 よく外国の批評家が、日本人は集団主義だというけれども、それは一応はあたっている。ただし、日本人の集団主義は、相互関係体としての集団、つまり社会を愛するというのではなくて、自分が所属している集団を極度に愛し、過剰に愛することによって自己愛を満足させているのですから、そこに根本的な自己欺瞞がある。 自分では自己犠牲をはらっている。自分は献身的であると思っていて、人にもそういって自分を正当化しながら、実は国家主義であり、会社主義なのです。三菱主義であり、伊藤忠主義であり、丸紅主義であって、それが猛烈な集団の膨張力をもっていて、企業進出のエネルギーとなっている。これがいまの日本の経済帝国主義の精神的な姿だと思います。自覚、自己批判がないわけですから、これを崩すのは容易なことではない。

https://oyamadahispolcanada.muragon.com/entry/1212.html

>所属集団なしに自己愛を人の前に出すほどの倫理的度胸はない。

日本スゴイ(と外国人が言った)」系のコンテンツが大流行りのわりに、個人としての自分自身には自信のない日本人が多い(と、何かのアンケート調査で見た)のはこういうことに起因するのだろうか…

 

権威主義的パーソナリティ

【3】に当てはまるか。

「柔順」は「従順」の間違いでしょう。

ウィニコット関連

 反社会的傾向と希望の間に結びつきが存在している。 二次的な利得が抜き差しならぬものがあり、反社会的傾向だ手の込んだものだとなれば、SOSだと気付くことは難しくなる。 さらに、貧困、貧相な住環境、崩壊した家庭、親の犯罪、社会的援助の崩壊などに結びついて、始まりがあって剥奪体験の子になり、非行になったのである。 反社会的傾向は本質的に母性愛剥奪に強く関連している。

(…)

母親が子どもの要求に応えてあげることで、子どもが対象を創造的に発見できるようになる。 これを失敗すると、対象との接触を失い、手を伸ばして対象を盗んでしまう。 これは強迫的行動なので理由はわからず、探しているのはいつも対象としての物ではなく、対象を発見する能力であるということも分からない。

in and out program | 希望のサインとしての非行

a.本当の自己の特徴

・遺伝で受け継いだポテンシャル

・環境の侵襲から守られている

・抱える環境の中で絶対依存の状態で環境の適応を得て初めて存在する

・言語的に外部と交流することはない 抱える側は意味のないこと、形のないこと、狂っていることに耐えねばならない 環境の失敗により万能感が欠落すると、防衛のために偽りの自己を発達させる

本当の、および偽りの自己という観点からみた自我の歪曲 | (株)心理オフィスK

 

【並存するもの】  対象としての母親と環境としての母親がある。 対象としての母親とは、乳幼児の切迫した欲求を満たす部分対象としての母親のことである。 環境としての母親とは、予想不可能なものを避け、扱いや管理全般において積極的に世話をしてくれる人間としての母親のことである。 愛情や感覚的な共一存在と呼ばれる全てを受け取るのが環境としての母親であり、剥き出しの本能の緊張に支えられた興奮経験のターゲットが対象としての母親である。 この2つが心の中で、高度にソフィスティケートされた経験として、思いやりが生活の中に現れる。 【思いやりへの過程】  母親は常に生き続け、また利用できるものであり続けなければならない。 活発なイド欲動に伴う空想は、攻撃と破壊を含んでいる。 赤ちゃんは自分が対象を食べると想像するだけでなく、その対象の中身を所有したいとも思う。 もし対象が破壊されなければ、それは赤ちゃんがその対象を守ったからではなく、その対象自身の生存能力が高かったからである。 そして、環境としての母親を守るために、子どもは抑制され、顔を背けるようになる。 乳児の離乳経験における肯定的要素と、自分自身から乳離れする乳児がいる理由の一つがここにある。 乳幼児は母親を食べてしまうと母親を失うので、不安を経験する。

in and out program | 思いやりの能力の発達

>そして、環境としての母親を守るために、子どもは抑制され、顔を背けるようになる。

↑映画『ザ・フライ』のラストシーンを連想

 

・空想することと解離

 すでに述べた錯覚の現実検討による脱錯覚に至る可逆性に対して、ウィニコットは「空想すること」という心理機能に関する独自の概念付けを行っている。 これは意識的な白昼夢や虚構などを意味し、無意識的な幻想と区別され、現実検討を受ける可能性も無く、パーソナリティに統合される可能性もない、解離された状態で起こるような、外的な現実を全能的に自分に都合のよいように巧みに操作する機能をもっており、「躁的防衛」と「一次的な解離」によって成立するものである。

in and out program | ウィニコットの一者関係から二者関係への移行・発達理論

 

 ウィニコットにおいて、赤ん坊が環境によってどのように扱われたかが決定的で、興奮は喜びであり危険でもあり、創造する能力が増大すると、一人でいられる能力に到達でき、攻撃性は元気の良さのようなものであり環境が受け止められないと破壊性になり、言葉による解釈より設定が重要である。

in and out program | ウィニコット理論とはどんな理論なのか?

 

空想に客観的な現実部分が交錯して生じるのが、錯覚。それは、現実と空想が入り混じる中間領域である。主観的に空想や願望で描いた内的世界と外的世界との接点が中間領域で、それが一致すれば充実した実在感が持て、人間と人間の関係は錯覚によって成り立つ領域が重要。空想は覚めないが、錯覚は覚める。

in and out program | ウィニコット理論とはどんな理論なのか?

 

無慈悲な攻撃性は、愛の一面であり、原初的な愛は無慈悲なものである。ユニットの統合が進むにつれ、攻撃性を向けていた対象と、愛情対象である対象が同一であると知り、罪悪感と修復衝動が生まれる。クラインと違い、抑うつでなく思いやりや関心が重要であると考え、思いやりの段階(stage of concern)とよぶ。

in and out program | ウィニコット理論とはどんな理論なのか?

 

母親の顔を鏡として見るのだが、その機能は、母親が赤ん坊に同一化している時に見られていると感じないが、できない場合に見られていると感じ、赤ん坊は母親の顔に自身を見るのでなく、実際の母親の顔を見てしまい、世界との万能的な関係は損なわれ、実際に鏡を見た時に映る像も違ってくる。

in and out program | ウィニコット理論とはどんな理論なのか?

 

現実原則

 多くの精神分析理論は、意義深い刺激を与え多くのことを教えてくれるのは人生における否定的体験であるということ、また快は錯覚を育み、不快は「現実」という偉大な外界に目を覚まさせ注意を促すということを主張します。

https://ka-gu.hatenablog.com/entry/20170810/1502368986