「境界例は拘束を嫌う」という話と、ひたすら「自由」を求めつづけたウィリアム・バロウズの寂しい晩年

林公一境界性パーソナリティ障害 患者・家族を支えた実例集』  という本に「境界性パーソナリティ障害の人は強く『自由』を求めるが患者にとって『自由』は有害になる場合が多い」というようなことが書いてあったような…

 

自分こそ彼(彼女)の治療者になろうと頑張ると、患者は拘束感を持ち、自殺への道に足をふみいれてゆくことがありうる。患者はしばしば治療者を心理的にも物理的にも拘束するが、拘束されるのは非常に嫌いで、この二つの落差が大きい(中井久夫「軽症境界例」『世に棲む患者』筑摩学芸文庫、2011年(初出1987年)、p221)。

境界例は拘束を嫌う - 熊田一雄の日記

 

そしてバロウズもいろんなところで、手持ちの自由を増やそうと思った。そのための手 段までかれは考えついた。カットアップなどを通じたコントロールの一般モデルの破壊 だ。が……それは結局は成功しなかった。バロウズは、過去と、社会と、そして死から逃れられなかった。でも、もし逃げられたとしたら――そうしたらどうなったんだろう。そこから逃げて、人は何をしたんだろう。 バロウズはそこんところを考えなかったし、1960 年代のいろんな人たちもそこのとこ ろはネグった。とにかく、逃げれば――自由をひたすら増やせば――なんかすばらしいこ とになる、と思った。その自由を使って人々は何かすると思った。

 

(…)

 

 で、バロウズはいったい自由を使って何をしようとしたんだろうか? 価値を生み出す ために具体的にかれは何をしただろうか? 何も。 驚くべきこと、なのかもしれない。あるいは時代精神からして当然のこと、なのかもし れない。でもバロウズは、その自由を何にも使わなかった。かれの伝記を語った第三章 でぼくは述べた:バロウズは何にもコミットしなかった、と。家族にも、なにかの運動に も、仕事にも。もちろんぼくたちは、それをかれの長所として考えようとする。バロウズと同時期の人々がコミットしたいろんな運動――エコロジーだの東洋宗教だのドラッグ 教だの――はすべて無惨な失敗に終わったから、それらに一切コミットしなかったバロウズは慧眼だったのだ、とぼくたちはつい思ってしまいがちだ。でもそうじゃないのかもしれない。かれは明晰な判断をもとにポジティブに参加を拒否したわけではない。単に面倒 で、コミットするのを恐れていただけなのかもしれない。そしてだからこそ、バロウズは 最終的に、あらゆる面で失敗するしかなかったのかもしれない。というか、何もしなけれ ば何で成功できるわけもない。そんだけのことだ。だからかれは晩年の小説でひたすら失 敗を描き、そして失った家族や恋人や友人たちをひたすら回想する、そんな状態に陥るし かなかったのかもしれない。残酷な言い方ではあるけれど。爺さんが昔を回想することに 文句をつけるのは殺生ではあるんだけれど、でも、ぼくはついそう思ってしまう(それに 殺生ったって、どのみちもう死んでるんだからかまうものか)。 

 

(…)

 

 ためた自由は使わなきゃいけない――つまりはそういうことだ。お金といっしょで、死 んだらその自由はなくなるだけだ。お金ならまだ死んでも子孫に残したり、どこかに寄付 したりもできるけれど、自由はどうしようもない。自由というのは、とりあえず好きなも のにコミットできる、ということではある。使えば――つまり何かにコミットすれば―― 自由は減る。ある意味で。でも自由が減るのを恐れて何にもコミットしなければ、つまり 何もしなければ、そんな自由はあっても仕方なかったとも言える。

 

(…)

 

 バロウズが(反面教師的に)教えてくれているのは、つまんないけどそういうことなのかもしれない。バロウズのすごさはある意味で、人がふつうはどこかで自然に悟るようなこうした当然の事実を、最後の最後まで頑固にわかることを拒否し続け、そしてその行き着く先をいろんな面での敗北として見せてくれたこと、なのかもしれない。かれは敗北した。でもその意味で、それは偉大な敗北ではあった。 

(『たかがバロウズ本。』山形浩生

 

↓の「強い一体化願望」というのも、境界例くさいところだ。

 「融合する肛門」とともに、アストラル投影というのもある。霊体として相手と一体化 したいという、これまた合一化への強い願望がもたらすイメージだ。バロウズのセックス・シーンで常に顕著なのが、この強い一体願望である。これについてはバロウズ自身が (珍しく自発的に)こんなことを言っている。

 

 「セックスというのは、他人になりたい、他人の肉体に入りこみたい、という欲望からなるんじゃないかね? 相手の人間になりたい、というのは同性愛において決 定的な要因なんだ」 [12, p. 72、ただし一部翻訳を修正]

 「同性愛のセックスでは、相手がどう感じているかズバリわかるから、相手の人間 と完全に同一化できる。異性とのセックスだと、いったい相手がどう感じているのか見当もつかない」 [12, p. 72]

 

セックスというのが、本当に相手になりたいという欲望からくるのかどうかは知らな い。個人的にいえば、ちがうんじゃないかと思う。ぼくにとってはそういうものじゃな い。でも、ここでだいじなのは、バロウズにとってのセックスとはそういうものだったし、バロウズにとっての同性愛というのもそういうものだった、ということだ。相手との 同一化が、バロウズにとっては、セックスと同性愛への基本的なドライブだった。同性愛なら相手と同一化できるのだ、とかれは断言する。しかし、これはおそらくウソだ。彼の 描く濡れ場には、決してそんな理想的な同一化は登場しないのである。

 

(…)

 

 リーは最初から最後まで、相手を自分の思い通りに変えようとしてあれやこれやの手をつくし、相手をそのまま受け入れようとはしないのだが、自分のほうは、常時あるがまま に受け入れてほしいと望み、当然拒否される。

(『たかがバロウズ本。』)