コフートの「自己の凝集性」・「自己の断片化」と、ラカンの「鏡像段階」・「寸断された身体」

この自己愛的脆弱性と関連して Kohut (1971, 1977, 1984) が使用する概
念に自己の「凝集性(cohesion) Jというものがある。 Wolf(1988)によれば,
この概念は比喰的なものであり,自己(self) という構造の構成要素が
まとまりと調和を保っていることを意味している。自己の凝集性は,体
験としては,幸福感(well-being)や活気を伴う自己体験(self experience) と
して現れる。この逆が「断片化(企agmentation)Jであり,自己がぱらぱら
になったように体験される状態である。自己の断片化は,エネルギーが
枯渇し,気分が憂露で,注意集中ができず,考えがまとまらないなどと
いった自己体験として現れる。自己の凝集性は変動するものであるが,
そのベースラインが高い自己とそうでない自己がある。この自己の凝集
性と自己愛的脆弱性は表裏の関係、にあると考えることができる。つまり,
凝集性の高い自己は自己愛的脆弱性が低いと考えられる。

https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00031102

コフートの「自己の凝集性」「自己の断片化」とラカンの「鏡像段階」「寸断された身体」に類似を感じるのは偶然か…?