「力動心理療法の危機」

確かに 1970 年代の後半から、自己愛性の傷つきに対する敏感性の高い統合失調症や行動 化の激しい境界例に対する治療展開を基盤に、精神分析療法から精神分析心理療法への 展開には画期的なものがあった。しかしその展開はさらなる発展をしているのか。当時の 精神分析精神分析心理療法の基軸における一貫性は維持されているのか。本質的なず れが生じてはいないのか。少々長い引用になるが、Freud(1918)の基軸を確認してみよう。 「ある幼児神経症の病歴より(狼男の症例);下線筆者」の抜粋である。 『もし神経症患者が、現在から関心をそらし、彼の空想の退行的代理形成物に固執すると いう困った特性を持っているなら、われわれにできることは、そのような精神過程の跡を 辿ってこれらの無意識的生産物を意識化させる以外にはないであろう。なぜならばそのよ うな無意識的な生産物こそ、それが実際生活上は無価値なものであるにしても、なお現在 の課題に患者の関心を向けさせるために、われわれが自由にしようとするところの関心を 拘束している目下のにない手、所有者として、極めて有意義な存在だからである。・・・(筆 者による略;これら幼児期状況が退行的な空想の所産すなわちそれは記憶の想起として再 生されるのではなく構成の産物であるという見解を持たなければ、現実の課題から逃れる ために空想活動があったのだと幼児期空想を処理して)分析の関心が現実生活に向けられ る第二治療期が挿入されることになるのであろう。このようにして行われる方法の簡略化、 したがってこれまで行われた精神分析治療の変更は技法上許しがたいもののように思われ る。もしこれらの空想を完全に患者に意識化させなければ、われわれはこれらの空想に拘 束されている関心を解放し患者が自由に支配できるようにすることは不可能である。もし われわれがそのような空想の存在とその一般的輪郭に気づくやいなや患者の注意をそらし てしまうならばわれわれは患者の抑圧をただ支持するに過ぎないことになる。しかもその 抑圧の働きによって、それらの空想は患者がどんなに努力しても触れることのできないも のになってしまう。・・・もし前もって患者に向かってそのような空想の価値を否定してお くならば、たとえばその空想は何ら現実的な意義を持たないものだと、患者に言っておく ならば、分析者はその空想を患者に意識化させるための分析への協力を決して患者から得 ることはできないであろう。したがって分析技法というものは、この幼児期の状況をどん なふうに評価しようとも、実際の治療上、正しい操作を行おうと志すかぎり決して変更してはならないものである。』 われわれは精神療法への抵抗あるいは陰性治療反応(NTR)の強い人々を困難患者であ ると言い慣れているが、翻ってフロイトの症例は、エミー・フォン夫人、狼男、等々、精 神病的、境界例とみなされるようないずれも極めて困難な患者であった。引用は、狼男の 症例においてフロイトが強調した技法の基軸である。こうして振り返ってみると、改めて’70 年代アメリカの精神分析から精神分析心理療法への転回は何であったのかと、ぞっとす る。時間空間構造を変えたウィークリー対面面接法は、フロイトが決して変更を加えては ならないとした技法の中核原理を揺るがしてはいないか。Kernberg (1982) が警戒してい たことだが、実際には精神分析心理療法は、力動的心理療法精神分析的支持療法、精 神分析志向の精神療法等々、様々な名称で多様に広がり、CCRT 法による支持—表現療法、 対象関係論による S. Mitchel の relational- theory、加えて現場対応力に強調点を置く AEDP(Accelerated Experiential Dynamic Psychotherapy)等々、多種多様なアプローチ が現れた。そうしたなかエヴィデンスが問われ、メタ心理学的世界の探求を飛ばし、現実 対処の第二の治療期に CBT がはまってそれが国策にまでなっている日本の現実は、まるで フロイトが予測していたかの如くである。

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