(『NCIS:~ネイビー犯罪捜査班 シーズン18 』「第10話 番犬」)
関係ありそうな引用の羅列
犯罪において、加害者は加虐-被虐的関係を下敷きとして加虐的部分に同一化する。加害者自身が無意識に憎む自己の部分は、犠牲者に投影され攻撃される。殺人=対象の完全な破壊は、そのように排出した部分が再び自己に戻ってこないようにするためである。加害者は意識的には特別に憎悪を抱いていない犠牲者を選択することも多いが、加害者から見て被害者には、自己の虐待され脆弱な部分や迫害的な内的対象に合致するところがある。加害者は被害者に対して無意識に自分の暴力性を投影して、相手を攻撃することを正当化する。加害者側の恐怖心もまた被害者に投影され、それが暴力の引き金となる。
クライン派ではないがボラスは、誘拐殺人犯と犠牲者の心的な相互作用を、以下の段階に分析している。1.「良いもの」の提供。2.受け取る側にとっての可能性空間。3.申し出を受け入れた犠牲者の悪性の依存。4.裏切り、犠牲者にとっての衝撃、自己の殺害。これが殺人者の乳児的状況であり、愛情の喪失と憎悪の誕生が交錯した外傷の瞬間である。犠牲者が経験させられる絶望は、加害者が感じた耐え難く抱え難い感情の投影同一化である。
暴力的な犯罪者への精神分析的接近(イマーゴ94-4)
http://home.u02.itscom.net/fukumoto/hp/shyohyo/archives/imago94-4.html
(3)他者が驚く様子を見るのが楽しい:自分の虐待している様子を第三者に見せた(あるいは報道された)ときの反応が「愉快」「面白い」といったことから動物に虐待を繰り返すことがあります。このケースの場合、周囲が驚きを示さなくなると、さらに虐待行為をエスカレートしてしまうことがあります。 (4) 精神疾患からの派生:とくに背景がないにもかかわらず、平然と動物を痛めつけたり、殺したりしたくなるといった欲求から、動物虐待をする子どもがいます。動物が苦しんでいる姿を見ること自体が楽しいといったサディズム、虐待等の犯罪行為に対して罪悪感がない行為障害(成人になると反社会性パーソナリティ障害)や反抗挑戦性障害などが考えられます。 まだ研究段階ですが、動物虐待を繰り返す子どもの場合、脳の「眼窩部(がんかぶ)の皮質に損傷がある」「モノアミン酸化酵素A遺伝子に変異が見られ、母親の胎内にいる時点から脳がセロトニンの過剰状態にさらされており、子どもが成長してもセロトニンが精神安定・鎮静効果を発揮していない」などの可能性を指摘し、脳に問題があると考える研究者もいます。
ここまで書いても「やはりあなたは攻撃性は本能だと言っているのではないのですか?」と言われるだろうか? しかしそうではないのだ。そこでこれまでの論旨を簡単にまとめよう。攻撃性は本能ではなく、いわば活動性や動きこそが本能である。人間は自分の動きにより世界に起きたある種の「効果」の大きさに興奮し、自らの能動性を自覚する。そしてその「効果」の大きさを最大限に提供してくれるのが、不幸なことに他者への侵害や、その苦痛なのである。加害行動はしかし現実の他者に向かうことへは強烈な抑止が働いている。私たちがニュースなどで目にして戦慄するおぞましい事件は、その抑止が外れた結果なのだ。
岡野憲一郎のブログ:気弱な精神科医 Ken Okano. A Blog of an insecure psychiatrist: 精神医学からみた暴力(再推敲後)2
自己愛性人格障害の反社会性と反社会性人格障害の反社会性の最大の違いは、他者の権利(生命)を侵害する行為についての罪悪感や良心の呵責の有無であり、反社会性人格障害(児童期の行為障害)の場合には、他者の苦痛や恐怖への共感性が完全に失われていて、小動物や子どもなどに対する残酷な虐待行為に快楽を覚える性癖(サディズムの性倒錯)を持っていることも少なくない。
反社会性人格障害では、支持的療法によるカウンセリングや洞察的療法による心理教育(司法矯正)を行っても、非人道的な犯罪行為に対する反省や他者の苦痛及び恐怖に対する共感を呼び覚ますことは極めて難しい。刑罰による犯罪抑制効果や被害者の遺族の訴えによる罪悪感の高まりも余り期待できないので、反社会性人格障害を持つ犯罪者が同様の犯罪や暴力を繰り返すリスクをどう減らせるかが大きな課題となっている。『脱価値化』が緩和する嫉妬感情と『共感性の欠如(他者の利用)』に根ざす自己愛の反社会性: カウンセリングルーム:Es Discovery
B群の人格障害が最も恐れるのは何かというと、他人が自分に関心や好意を示さない『孤独状況』であり、その孤独状況に対する恐怖は発達早期に見られる分離不安が遷延した『見捨てられ不安』に根ざしている。社会規範や法規範を無視して自己の欲求を満たす反社会性人格障害の場合には、他人から嫌われるので『他人の関心や好意』を得られないではないかという意見もあるかもしれないが、反社会性人格障害の人は『他人が破れない法律や倫理』を豪快かつ無慈悲に破れる自己に陶酔しており、社会(他者)に打撃を与える無軌道なパワーを自己顕示的に他者に見せ付けることに快の興奮を見出している。
反社会性人格障害の本質を突き詰めれば、『徹底した自己の特別視』と『他人の権利(感情)の否定』であり、自分を特別な価値のある人間と思い込む点では自己愛性人格障害の心理特性と非常に似ているのである。
反社会性人格障害の人は『他者の恐怖や軽蔑の眼差し』を、特別(特殊)な自己への感情的対価として受け取るのだが、それは、自分以外の全ての人が遵守している社会のルールが自分には無効であるという『幼児的な万能感』に由来している。反社会性人格障害の無意識には『勤勉性・責任感・遵法精神などに支えられた平均的な日常生活を送れないという劣等性コンプレックス』があるが、反社会性人格障害の人は『不法行為(他害行為)による瞬間的な快楽』で劣等性コンプレックスを補償しようとする。善良な人たちが自制している『暴力性・残虐性・無慈悲性・知的計略などの反社会的行動』によって、平穏な社会生活を送っている他人を瞬間的なパワーで制圧したり屈辱や恐怖を味わわせようとする。
反社会性人格障害の多くの人たちにとって、『他人を傷つける不法行為』は直接的な物理的利益や身体的快楽を手に入れる手段というよりは、今までの人生で感じた劣等感や不幸感を補償(埋め合わせ)するための代償的なカタルシス(感情浄化)である。『自分が適応できない平穏な社会秩序(日常生活)』を無価値化したい欲求が、他人を傷害したり搾取(強奪)しようとする危険な衝動性を生み出すと同時にそれを正当化している。同じB群に属する自己愛性人格障害でも、『他人への共感性の欠如』と『思い通りに動かない他人の切り捨て(脱価値化)』といった受動的な自己中心性が顕著である。
反社会性人格障害と自己愛性人格障害の大きな違いは、反社会性人格障害は『既存の社会的な評価軸』を破壊する不法行為によって自己を特別化しようとするが、自己愛性人格障害は『既存の社会的な評価軸(地位・名声・財力・権力・教養)』の中で賞賛や肯定を求めて自分を特別な人間と思い込もうとするところである。どちらも『一般人とはかけ離れた特別な能力や属性を持つ凄い人間』と思われたい強い自己愛では共通しているが、反社会性人格障害の場合は自己愛性人格障害のように『他人の尊敬・憧れ』を得たいとは思っておらず、相手の生活や社会の治安に致命的な影響を与え得る『恐れ知らずで計算高い自分のパワー』を顕示的に見せ付けたいという破壊衝動を抑えきれずにいる。他者の評価や反応を求めるB群(クラスターB)の人格障害:“特別な自分の価値”を自己顕示する方法の違い: カウンセリングルーム:Es Discovery
また、原始的羨望から、自分が最も欲しているものを破壊したいという願望があり、他人は楽しんでおり自分には欠けている何かが、不全感を生む。肯定的で優しい領域に属するあらゆるものに対する活発な価値下げと軽視は、特徴的である。
羨望は、母親との独占的な関係を基盤として、自分以外の人が何か望ましいものをわがものとしていて、それを楽しんでいることへの怒りの感情であり、それを奪い取るか、損なってしまうことを目的にする。 悪い排泄物や自己の悪い部分などの悪しきものを、母親の内部に突っ込もうとする。 人の楽しんでいるのを見ていやな気持ちになり、他人の悲惨なさまを見て、はじめて気が休まる。 満足させようとする努力は、全て実を実を結ぶことがない。 羨望はうちから生じてくるものであって、いつでもその目標となる対象を見出すにいたるのであるから、飽くことを知らず、決して満足させられることがない。
社会環境や対人関係をどのように認知しているのかという『認知理論』の観点からも反社会性人格障害の研究は行われており、他人の権利を侵害しても構わないという反社会的な認知は『他者に対する基本的不信感・社会から不当に迫害されているという被害感情・自分を守るために他者を攻撃しなければならないという自衛の必要性』などから生まれている。
自分自身も社会や他人から傷つけられ搾取(虐待)されているのだから、自分も社会の規則を破って他人を攻撃しても良いというのが反社会性人格障害の基本的認知であり、彼らの内面世界では『幼少期から与えられてきた苦痛・屈辱』を社会に与え返すという『同害復讐法的な正当化』が為されている。
Steinerはその中で先行研究を総括しながらも、パーソナリティの中の依存的な部分(自 己の弱さや辛さを感じられる健康な部分)が、パーソナリティのもう一面の破壊的な部分によって支配される様をパーソナリティの自己愛的な病理的組織化と概念化した。結局のところ、心の健康な部分が淋しさ、みじめさ、弱さの感覚に伴う抑鬱不安に耐えられないがために、破壊的で羨望に満ちた病的部分が壼き出し、弱さを否認し強さの感覚を手 に入れるために嘘やごまかしに満ちた「 自己愛的倒錯」手段に訴えると言うわけである。
DVにおいても、暴力は脳/精神の低い水準での統一感を取り戻してくれる。この統一感は、しかし、その時かぎりであり、それも始まりのときにもっとも高く、次第に減る。戦争の高揚感は一ヶ月で消える。暴力は、終えた後に自己評価向上がない。真の満足感がないのである。したがって、暴力は嗜癖化する。最初は思い余ってとか論戦に敗れてというそれなりの理由があっても、次第次第に些細な契機、ついにはいいがかりをつけてまでふるうようになる。また、同じ効果を得るために次第に大量の暴力を用いなければならなくなる。すなわち、同程度の統一感に達するための暴力量は無限に増大する。さらに、嗜癖にはこれでよいという上限がない。嗜癖は、睡眠欲や食欲・性欲と異なり、満たされれば自ずと止むという性質がなく、ますます渇きが増大する。
中井久夫『徴候・記憶・外傷』
フロイトの議論では、「自己のナルシシズムを諦めた人」(82)は、子どもや猫、猛禽といった自己充足に浸ることのできる対象に対し、羨望を抱くという。
さらにKernberg は悪性の自己愛と通常タイプ の自己愛人格との間の大きな相違点として[攻撃 性] に着目している。彼によれば「これらの患者 は自分や他者に向かって, 攻撃性を表現するとき に自己評価が高まり自分の誇大性の確認を経験す る。残酷な喜び, サディスティクな性倒錯は, 喜 びと体験される自傷と同じようにこの特徴の一部 である」と表現されている。彼はこうした表現で も症例の重さを伝えきれないと考えてか, さらに 続けて「冷静に自らを傷つけ殺すこともできると いうことを表現する彼らの感覚は, 彼らを生かし 人間的接触を維持しようとする親類やスタッフの 恐怖と絶望, そしで“祈る”ような努力とは対照 的に, 彼らの自己評価充足の求め方に劇的な歪み があることを説明している。患者の誇大性は痛み と死の恐怖を克服したという感覚, 無意識レベル では死をコントロールしているという感覚によっ て満たされている」と記述している。
連結へに向けられた攻撃は、分析家の、起源としては母親のものであり、こころの平静さへの攻撃と同義である。 取り入れる能力は、患者の羨望と憎悪によって、患者の精神を貪り食う貪欲さに変形される。 患者が、心の平静さを破壊するために、行動化や違法行為や自殺の脅しを利用することによって生じてくる。
DVにおいても、暴力は脳/精神の低い水準での統一感を取り戻してくれる。この統一感は、しかし、その時かぎりであり、それも始まりのときにもっとも高く、次第に減る。戦争の高揚感は一ヶ月で消える。暴力は、終えた後に自己評価向上がない。真の満足感がないのである。したがって、暴力は嗜癖化する。最初は思い余ってとか論戦に敗れてというそれなりの理由があっても、次第次第に些細な契機、ついにはいいがかりをつけてまでふるうようになる。また、同じ効果を得るために次第に大量の暴力を用いなければならなくなる。すなわち、同程度の統一感に達するための暴力量は無限に増大する。さらに、嗜癖にはこれでよいという上限がない。嗜癖は、睡眠欲や食欲・性欲と異なり、満たされれば自ずと止むという性質がなく、ますます渇きが増大する。
(中井久夫「「踏み越え」について」)
ルソーにとって、悪人とは、自身の利益だけを考えるエゴイストではない。真のエゴイストは自分にとっての善を追求するのに手一杯で、他人に不幸をもたらす暇などない。悪人の主たる悪徳とは、まさに自身ではなく他者への思いに捕われている点なのである。...もはや自分自身の幸福によってではなく、他人の不幸によってのみ満足させられるのです。
「ところが最近の傾向では『遊び型』でもない、一見動機がわかりにくい犯罪が増えてきている。私は『自己確認型』と名付けているが、そこには、空虚な自己を埋めたいという心理が根底にあると思う。『自分は何でも出来る』という幼児的な万能感、自己愛を引きずったままの少年が、受験などを契機に挫折してしまう。自己の優位性が崩れたとき、それを埋め合わせるために、犯罪に走って世間を騒がせ、社会に自分を刻むことで自己を確認するという心理に陥る。 または、表面上は受験、学校という社会に適応しているように見え他も、仮面をかぶり続けることで自分を失ってしまうケースもある。ここから、相手の死によって自分の生を確認する、とでも言うような心理が生まれていく。こうした自己の病理(エゴパシー)による犯罪が最近の特徴といえるのではないか。」
症例 5の特徴は,「母親に受け入れられたことが ない」という恨みに近い心性が底流に流れている 一方で,「自分は他人より偉い」という現実に基づかない空想的な誇大的自己像が根強くあって,何 からの機会にそれが顔を出すことである.ここで 現実に基づかないというのは,小中学生のときに 成績がよかったとか,芸術的活動や何らかのス ポーツで活躍したといった,自らを誇ることので きる実際の体験をもったことがないにもかかわら ず,空想的に自分は偉いと思っているという意味 である.それだけに,自我親和的なのである.全 体的に,空想的に自分を捉え,現実を見ないで行 動に走るというところがある.こうした空想性を 持っていることの背後には,どちらかといえば悲惨な成育史のあることが多い.症例 5が崩壊家族 としか言いようのない幼児期を過ごしていること がこの空想性を高め,誇大的自己像を形成するに至ったと考えられる. 加えて,多少とも反社会的で暴力的なところが あることも,この症例の特徴である.悪性自己愛といえるもので,現実社会で自らを誇る体 験をもつことを諦めた人間が,代わって他者ない しは社会一般を破壊することで自らの誇大性を体 験しようとするのである.正常域群に属する 症例は,現実を無視した空想的な心理過程のある ことを特徴とするものが多かった.それだけに社会的な活動や内的心理過程に対する葛藤がないた めに,評価尺度での質問には T得点が高くならな いのである.
いわゆる「社会的ひきこもり」に関する MMPIを用いた臨床的研究