森鴎外 肛門性格

こうもん‐せいかく【肛門性格

〘名〙 精神分析で、性本能の発達の第二段階である肛門期に固着することによって生じる性格の類型。吝嗇(りんしょく)、気強さ、几帳面、潔癖がその特色で、強い場合には退嬰(たいえい)的、敵意的になるといわれる。

肛門性格(こうもんせいかく)とは? 意味や使い方 - コトバンク

 

肛門期の発達段階にリビドーが停滞することによって形成される性格傾向が肛門性格(anal character)であり、その特徴として『倹約・吝嗇(ケチ)・頑固・几帳面・神経質・強迫的』などを上げることができる。倹約やケチなどの特徴は、大便の保持によるリビドー充足への固着であり、お金・利益・時間を必要以上に保持することにつながっている。融通の効かない頑固さや偏屈さというのは、トイレット・トレーニングを強制してくる母親への抵抗への固着であり、受動的攻撃性を持つ特異な性格構造につながっている。強迫的な几帳面さや礼儀正しさは、肛門期特有のサディズムに対する反動形成の現れであり、肛門性格では特定の行動や規範に対する従属性が見られることがある。

[フロイトの性的発達理論と肛門期性格(anal character)]: Keyword Project+Psychology:心理学事典のブログ

 

ヰタ・セクスアリス」には、「お母様には僕の考がわからない。僕は又考はあっても言いたくない」という一節がある。鴎外も、母に対してむっつり黙り込んで無言の抵抗を試みている。

https://web.archive.org/web/20160926143654/http://www.ne.jp/asahi/kaze/kaze/kao.html

 

●鴎外―― 「ご承知の通り鴎外は非凡な学者でもあるし、文学者でもありますが、割合に気の小さい人でした。気の小さい人で、敵味方を分けて考えたがる人で、狭量です。いかなるものも包容するというような度量に乏しい人で、党派心が強い。かれが文壇に出た初めから党派的に対抗意識の強い人でありましたが、その対抗意識の強い鴎外は自然主義運動のために閑却されるということでありましたから、慶応義塾が鴎外に乗りだしてくれと懇請して、上田敏と相談して永井荷風を推薦して『三田文学』を興させたということについては、鴎外としては十分、党派的な心理もあったと思います。自然主義運動に対して、別の新しい文学の潮流を興す、対抗意識がずいぶんあったと思います」。  「文学者としての鴎外は、何世紀に一人というような人だと思いますが、しかしわりあいに気が小さくて、人生の態度としてはけちけちしているところがある。やはり軍医で、官吏としての地位の昇進とか、あるいは同輩とどっちが遅れるとかいうようなことが、気になる。それから文壇における批評も、ほったらかしておけない。だから鴎外くらい批評に対して一々答えているものは少ないでしょう。批評したものと鴎外の力量を比べると、それこそ横綱と三段目の相撲ぐらいに違うのですから、ねじ伏せるようなことをいうのです。段違いの力量学識で、ねじ伏せるようなことをいいますから、終始人に好かれませんでした。わたしは一ぺんしか鴎外に会ったことがない。会ったというより見たことが一ぺんありますが、宴会の席上なんかに出ますと、なんとなく映えない人でしたね。堂々としていない」。  「鴎外もまた、自分の身辺に、なんの贅沢らしいこともしない。鴎外は、本を買うことと、葉巻には金を使った、割合にいい葉巻を喫っていたらしいのですが、それ以外に何の贅沢もしない、いかにも日本の古武士らしい生活態度を守ってきた人であり、その点において、乃木(希典)に共鳴しておったのです」。

(※太字強調引用者)

小泉信三の森鴎外、夏目漱石、幸田露伴に対する人物評が、なかなかに興味深い講義録・・・【情熱の本箱(390)】 « 榎戸誠の情熱的読書のすすめ

 

精神分析においては, 強迫性格は肛門愛性格とも呼ばれ, 幼児期における子どもの欲求と親の過干渉との衝突を背景として, サディスティックな攻撃性や破壊衝動が抑圧されたり, あるいは糞便を保持し, 糞便で汚辱する快感への固着から発展するものであるとされる。 そして, 強迫症状は,しつけをする母親への攻撃性や反抗心の抑圧,あるいは受け身的依存の反動形成に由来するものと考える。

https://www.i-repository.net/contents/outemon/ir/401/401961205.pdf

 

鴎外の人間的なひ弱さ・線の細さは、病気を連想させるという理由で便器を見るのを厭がったという話や、実弟の死体解剖に立ち会っていて失神したという話にも示されている。

(…)

少年期の鴎外は、外社会との接触を避けて家にこもり、一人で孤独な時間を過ごした。そうした少年の常として、読書に楽しみを見出したところまでは他と同じだったが、特徴的なことは、彼が家にあった古い道具や骨董品に一方ならぬ強い関心を持ったことである。彼の興味は、子供らしい空想に向かわないで、具象的なものに向けられ、その思考はそれらの用具を使っていた過去世代の生活に向けられたのだ。  成人してからも、鴎外は地方出張のたびに、名所旧跡を訪ねる代わりに手近な墓地に出かけ、墓石に刻まれた墓誌などを手帳に書き写している。  思考が抽象的なもの原理的なものに向かわないで、常に現実的なもの具象的なものに向かうという鴎外世界の原型が、すでにこの頃から芽生えているのである。  鴎外は、「外」に対して度を越すような警戒心を持っていた。彼は病菌を移されることを恐れて、絶対に銭湯に出かけなかった。単身赴任中は、借家の風呂を使うことすらしないで、入浴する代わりに湯で身体を拭いて済ませた。  「鶏」の石田少佐は、これを生活上の無頓着主義から来ているように吹聴している。だが、事実は「銭湯恐怖」から来た行動だったのである。  彼は、便所の把手に直接手が触れることを恐れて、いつも紙をあてがってからしていた。彼は、このやりかたを子供達にも実行させている。彼は又、家族に列車の洗面所を使用することを禁じた。いずれも病菌に対する過剰な警戒心から来た行動で、こうした「外」に対する神経質な態度は、幼少期の「外界恐怖」に原形を持つものなのである。

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軍医としての鴎外の行動も、急速に攻撃的になっていく。次々に医事雑誌を発刊して、医学界のボスに向かって攻撃の矢を浴びせるようになった。その執拗な論陣の張り方は、関係者をして鴎外を「執筆狂」「書痢」と呼ばせるに至った程だ。  この点は文学論争においても同じで、石橋忍月坪内逍遥を完膚なきまでにたたき伏せて論壇のリーダーとなるや、新聞・雑誌に彼に関する批評が載ると、一言何かいわれれば十言を返すというような反応を示した。その過敏な態度は常軌を逸しており、鴎外自身も後年、「(あの頃の自分は)気違いじみていた」と回顧している。

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師団長会議などが済んだ後に、陸軍大臣官邸で宴会がある。宴会が終わると、一同はくっろいで談笑をはじめる。その時の鴎外の様子を山田弘倫は次のように記している。  

「先生はいつも部屋の一隅に座を占め、肩をすぼめ、手を膝のあたりに組み、恭謙というよりはいかにも恐縮という態度であり、或は周囲に何か汚い物か、恐ろしいものを見ている人の様な姿でもあった。だから我々下僚としても、他に対して何となく肩身狭くさえ感じていたものだ。全く義理に縛られたような気持で、殆ど居たたまれぬ程のつらさから自然と身体の縮まる思いで居られたのかもしれない」

 私は「周囲に何か汚い物か、恐ろしいものを見ている人の様な」という部分に注意をひかれる。

https://web.archive.org/web/20160510115618/http://www.asahi-net.or.jp/~VS6H-OOND/ougai.html

 

 ちょっと気になるので久々にめくっていたら、境界例との比較でパラノイアを扱った部分があったのでそこを抜粋。 「患者の解釈妄想体系が、長年の孤立から生じる周囲との緊張関係や慢性的な葛藤の上に花咲かせていることは間違いない。彼は、自然な感情の表出、ユーモアの感覚、(内省型患者にみられるような)無防備な内省、他人に心を開くことなど、およそ形態の定まらぬもの、柔軟なものをすべて排斥することによって、健常者よりもはるかに堅固な人格構造を作り上げている」(214頁)。  協調的な仕事はできないが、一人でやる仕事に大きなミスをおかすことがない。自分の周囲は敵ばかりであるが、「この緊張関係に耐えぬき、孤独の中で戦い続けるだけの意志の強さを持っている。彼は妄想解釈を人目から隠し、取りつくろう術を知っている。数年に一度、周囲との間に小さな摩擦を引き起こすことがあるけれど、大きな争いへの発展は慎重に避けている」。というわけで、「安定」して人と共存する能力を身につけているといってよいので「心の底からの和解や人生観の修正が可能な段階は、とうに過ぎてしまっている」(214頁)。

境界事象と精神医学 - ミズラモグラの巣で