太宰治「春の盗賊」、クリストファー・ボラス『対象の影』第10章「虚言者」

 

次に物語る一篇も、これはフィクションである。私は、昨夜どろぼうに見舞われた。そうして、それは嘘であります。全部、嘘であります。そう断らなければならぬ私のばかばかしさ。ひとりで、くすくす笑っちゃった。

図書カード:春の盗賊

 

 嘘を通じてしかパーソナルな現実を感じられず、嘘を通してしか現実感が湧かない人がいる。 虚言者の嘘は、メタファーなのである。

(…)

嘘には二つの階層がある。

一つ目は、恐怖から解放されるための嘘である。

二つ目は、生き生きとして勝ち誇った感覚と自信が伴う嘘である。

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 嘘は虚言者に、生きている実感を与え、一貫性をもたらし、虚無に命を与える行為なのである。 彼らは、環境に無慈悲なところがあることを、うすうすと気づいている。

in and out program | 虚言者

 

父は仕事で多忙な日々を送り、母は病弱だったため、生まれてすぐ乳母に育てられた。その乳母が1年足らずで辞めた後は叔母のキエ(たねの妹)が、3歳から小学校入学までは14歳の女中・近村たけが子守りを務めた。

太宰治 - Wikipedia

 

 色々な人に養育されることよって、客観的に認識された対象と、幻想上のニードと欲望の法則に則った対象と、体験を持つようになる。 現実の生きた体験の欠落によって生じた隙間を埋めるため、代わりの世界を作り出さざるを得なかった。 一つの対象との満ち足りた体験を発展させることが出来るのは、幻想の中だけであった。 対象のこの二種類の体験様式は代替可能な、ほぼ等価な実存状態にあり、嘘は第二の体験様式から生まれる。 嘘をつく目的は、自己と対象の体験様式のもう一つの階層として、虚言が現実の両親の不在から立ち直らせてくれるよう機能するからである。 両親との幻想上の関係を取り戻す機能は、実在の両親それぞれとの関係よりずっと大事なものとなる。 虚言者の嘘は、単に幻想することではなく、現実との別の関係を生み出すのである。 つまり、虚言行為は、外の世界との関わりをもつうえで、単に現実を吟味する方法であるというだけでなく、現実を用いたり現実がもたらす快適や喜びの要素を発見するための方法でもあるので、嘘を手放すことは現実検討の放棄に等しいと思われる。

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