コンタルド・カリガリス『妄想はなぜ必要か』

 

妄想はなぜ必要か―ラカン派の精神病臨床

妄想はなぜ必要か―ラカン派の精神病臨床

 

 

倒錯者のように、私と共犯を企てるわけでも、私に挑戦するわけでもないし、

(P6)

神経症」と「精神病」の中間である「境界例」などという概念は認めない!(神経症だ)みたいなことを言うラカン派の人がいるが、↑を見ると境界例患者はラカンの「神経症/倒錯/精神病」の三分類では「倒錯」に位置付けられるのではないか。

 

 一九五五-五六年に、フランスは自由の哲学、選択の自由を掲げている実存主義にひたっていました。そしてラカンは、神経症者のディスクール、自由な人間であるという神経症的観念は妄想であると言いました。それは、妄想に似ているのではなく、妄想だと言ったのです。彼はこれを「自律妄想」と呼びます。これはラカンが政治的発言をした数少ない例です。ラカンは政治的行為の効果と自律妄想との間には反比例が成り立つことになろう、と主張しています。つまり政治的ディスクールは人間にとっての抽象的、基本的自由の復権要求へと還元され、それに伴って政治的行為の効果の方は減弱する、ということです。

(P22-23)

 「アメリカン・ニューシネマ」と呼ばれる作品群の主人公(たち)は「自由」を求めて最終的に挫折するわけですが

 ジャン=ジャック・ベネックスの『ベティ・ブルー』という映画は間接的な指令によって精神病が発症する興味深い例を示してくれます。ある若い女性が、自分の夫をひとかどの男にしようとして、いつの間にか父親にしてしまうという物語です。

(P60)

 

神経症の知を表現すると

(図解)

中心となる軸をめぐって組織化されています。

そして精神病的知は

(図解)

中心への依拠なしに組織化された網のようなものです。

(P79-80)

 

現在、我々の世界で支配的な症状は神経症的症状ですが、倒錯的な症状の側へと変化していく可能性もあります。それが精神病の運命を変化させることになるかどうかは分かりません。というのは、父の機能に依拠することは倒錯においても神経症同様に不可欠だからです。倒錯的世界になったら、おそらく精神病者にとってはより辛いことになるでしょう。

(P95)

 このの原書が出たのは1991年

自閉症者はある意味で、精神病的問題以前に位置するように思われます。精神病も神経症も、〈他者〉の〈要求〉に答えようとします。そして、知への依拠において主体を支え、その知が主体を防衛し、主体を対象と区別してくれます。自閉症という選択はこれとは違ったものに見えます。自閉症は、自分自身を消滅させることによって〈他者〉の〈要求〉を消去する試みです。神がいなければ、神は何も要求しないはずだというわけです。自閉症者は神学者のようなものです。スラヴツキーさんが先ほどおっしゃったように「沈黙の病相期」なのです。しかし、そこから脱出して、持続的な世界没落体験に陥ることもあります。

(P99)

 

 

 この点について、精神病者は知という次元を大変信頼していることに注目すべきでしょう。精神病者の冒険は最初から知の冒険であって、兵役のような支配の冒険ではありません。

(P155)

 

非病相期の患者というのは、今までに一度も発病していない患者のことです、一度でも発病したら、発病前の状態に戻ることは決してできません。病相期の小休止とは、発病前の状態へ戻ることではなく、妄想的な父の隠喩がうまく機能している状態なのです。

(P156)

 

 分析的な位置が神経症であっても精神病であっても同じなのは、患者が分析家に期待することが根底では同じだからです。患者は本質的に〈他者〉の想像的な〈要求〉の罷免を望んでいるのです。

(P165)

ほな、どないせぇゆうね

ほな、どないせぇゆうね

 

IPAはとんでもない基準を設けていました。IPAは、精神分析家がどうあるべきかという理想を持っており、それは審美的な理想ですらありました。分析家になろうとする人は身体的欠陥があってはならないというのです。そういうことを正当化するために、理論的な理由づけをしていました。特に、分析の終わりとは分析家への同一化――それはもちろん想像的な同一化です――であると考えていたので、この同一化の支えとなるように、分析家の外見を重視したのです。

(P166)

いわゆる「ルッキズム」ですな。

基本的に、精神分析家とは、不可能なものに対して防衛する必要などない、享楽させる〈他者〉などいないということを「知っている」者のことです。

(P167)