森鴎外『ヰタ・セクスアリス』 自己弁護することを自己弁護する

衒学げんがくなんという語もまだ流行はやらなかったが、流行っていたらこの場合に使われたのだろう。その外、自己弁護だなんぞという罪名もまだ無かった。僕はどんな芸術品でも、自己弁護でないものは無いように思う。それは人生が自己弁護であるからである。あらゆる生物の生活が自己弁護であるからである。木の葉に止まっている雨蛙は青くて、壁に止まっているのは土色をしている。草むらを出没する蜥蜴とかげは背に緑の筋を持っている。沙漠の砂に住んでいるのは砂の色をしている。Mimicry は自己弁護である。文章の自己弁護であるのも、同じ道理である。僕はさいわいにそんな非難も受けなかった。僕は幸に僕の書いた物の存在権をも疑われずに済んだ。それは存在権の最も覚束ない、智的にも情的にも、人に何物をも与えない批評というものが、その頃はまだ発明せられていなかったからである。
 一週間程立って、或日の午後霽波が又遣って来た。社主が先日書いて貰ったお礼に馳走をしたいというのだから、今から一しょに来てくれろと云う。相客は原口安斎はらぐちあんさいという詩人だけで、霽波が社主に代って主人役をするというのである。

 

自己弁護することを自己弁護する記述が唐突な感じで出てくるわけだが、生物が防衛するものが身体であり生命であるのに対して、鴎外が自己弁護するものは自我でありセルフイメージではないだろうか?