なぜ「ひきこもり」経験者が自らを「宇宙人」「外国人」のようだと感じるようになるのか

しかし、これらは単に自己評価の低さや羞恥心として説明がつくものではなく、彼らの感覚はいくら取り繕ってもそれを拭うことができないような、自己の存在に深く根付いた違和感であると考えられる。T さんと E さんの「変人」という言葉や、筆者が面接を行ってきた他の若者たちが自分を「宇宙人」「外国人」と評したことには、自己の固有性そのものについての違和感が表現されているといえるであろう。

 

第 3 章で述べたように、ひきこもりの若者たちが語る「いじめ被害」の内容は、身体的あるいは心理的に攻撃されたという経験よりも、無視あるいは放置されたという経験のほうが多く語られているからである。攻撃された体験であれば心的外傷論の枠組みで捉えることができるが、無視や放置という体験には別の理解が必要であろう。こ
の答えについては、回復プロセスを検討することで与えられる。

「ひきこもり」についての理解と支援の新たなる枠組みをめぐって : 心理‐社会的な視点からの探求  村澤和多里

https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/66165/1/Watari_Murasawa.pdf

 

(十川)……ここが私の構想の中核になる点だと思うので改めて説明しておくと、乳児が両親のコミュニケーションを傍らで聞いているというのは、自己経験の原型となる一つのモデルなんですね。乳児は両親のコミュニケーションに入っていない。それが次第に情動的な反応を示すようになり、言語的コミュニケーションも行えるようになる。最初はコミュニケーションの「外部」にいた乳児が、いつのまにかコミュニケーションを形成するようになっている。その際、重要なことは、子供は言語という構造化された場所に入るのではなく、コミュニケーションという謎と力に満ちた場所に入るということです。したがって、この場所で生じるさまざまな力は子供に傷を与える。また、コミュニケーションの場に入ることは、ある時から入って、あとはその「内部」にいる、といったものではなく、どのように入ったか分からないし、コミュニケーションを生み出し続けなければ、その「外部」に位置することになってしまいます。また、この原初の疎外経験は子供の空想の形式も決定しています。フロイトの「原風景」、クラインの「結合両親像」といったいくつかの外傷的な空想は、このモデルで説明することができます(pp.23−24)。

「〈座談会〉来るべき精神分析のために」(十川幸司・原和之・立木康介、『思想』2010年第6号 pp.8−59) - zhongdao2009の日記

 

言葉のわからない赤ん坊として言葉によるコミュニケーションの外側に疎外されていた頃のトラウマが再燃するということなのでは。

だから、無視といういじめが堪えると。(いじめ加害者もこのトラウマを抱えていて、それをいじめ被害者になすりつける)

 

最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」 )