コフートの「自己の凝集性」・「自己の断片化」と、ラカンの「鏡像段階」・「寸断された身体」

この自己愛的脆弱性と関連して Kohut (1971, 1977, 1984) が使用する概
念に自己の「凝集性(cohesion) Jというものがある。 Wolf(1988)によれば,
この概念は比喰的なものであり,自己(self) という構造の構成要素が
まとまりと調和を保っていることを意味している。自己の凝集性は,体
験としては,幸福感(well-being)や活気を伴う自己体験(self experience) と
して現れる。この逆が「断片化(企agmentation)Jであり,自己がぱらぱら
になったように体験される状態である。自己の断片化は,エネルギーが
枯渇し,気分が憂露で,注意集中ができず,考えがまとまらないなどと
いった自己体験として現れる。自己の凝集性は変動するものであるが,
そのベースラインが高い自己とそうでない自己がある。この自己の凝集
性と自己愛的脆弱性は表裏の関係、にあると考えることができる。つまり,
凝集性の高い自己は自己愛的脆弱性が低いと考えられる。

https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00031102

コフートの「自己の凝集性」「自己の断片化」とラカンの「鏡像段階」「寸断された身体」に類似を感じるのは偶然か…?

 

クリストファー・ラッシュ 移行対象の破壊

ラッシュは、確かに現在のアメリカ経済のテクノロジーは、基本的な生活必需品を十分にいきわたらせ、そして今や広告によって消費者の欲望をかきたて始めるところまで来たが、そこに生まれた消費文化は、物質に支配された文化、あるいは物質主義ではないという。商品の生産と消費中心主義とは、「鏡や、架空のイメージや、どんどんリアリティーとの区別がつかなくなっていくイリュージョンでできた世界」 なのであり、消費者は、物質ではなくファンタジーに取り囲まれているのである。

(略)

 現代文化のナルシシズム的傾向を助長するものとして、ラッシュは平等主義的家族の出現、子供が家庭以外の社会化をすすめる要因に接する機会の増大、イリュージョンとリアリティーの境をとりはずしてしまう現代大衆文化の一般的な影響の3点をあげている。その中で、ラッシュは、D.W.ウィニコットの移行的対象理論を取り上げながら、大量生産・大量消費に基づく社会では人口のものからなる中間領域が消えていくのだと考えた。つまり、毛布や人形、テディベアなどのおもちゃは、子どもにとって主体と客体の境界領域を占める「移行的対象」だと考えられるが、商品の世界は「作りあげられた環境、つまり夢の世界の形態をとってわれわれの内的ファンタジーに直接アピールする」のである。つまり、「移行的性格」を持たない商品の世界は、自己と周囲をつなぐものではなく、両者の間の違いを抹殺するのだという。

https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/record/11844/files/KU-1100-19890310-01.pdf

 

三島由紀夫とコフートの理論

何か関係ありそうじゃないでしょうか

 

 自分では十分俗惡で、山氣もありすぎるほどあるのに、どうして「俗に遊ぶ」といふ境地に成れないものか、われとわが心を疑つてゐる。私は人生を殆ど愛さない。いつも風車を相手に戰つてゐるのが、一體、人生を愛するといふことであるかどうか。

果たし得てゐない約束——私の中の二十五年 三島由紀夫|みつうろこ

 

 誇大自己は心的装置の他の部分から解離されてできたものである。「顕示的な衝迫や誇大な妄想は、このように隔離された分割され否認/抑圧されためめであり、これが現実自我の修正的影響を受けるということは非常に困難である」(129-130頁)。これにより生じる主要な心的不全として、

 

(略)

 

②健康な自己評価の能力が低下し、活動や成功を自我親和的な楽しみとする能力が低下する。これは、自己愛リビドーが非現実的で無意識的あるいは否認的な誇大空想に結びついており、また分割/抑圧されている誇大自己の生の顕示性にも結びついているためである。

自己の分析:鏡転移 - ミズラモグラの巣で

 

 

 

買い物依存症の精神分析

中村うさぎさんに見られるようなタイプの買い物依存症って、精神分析方面の言葉で言うと、買う前は理想化され輝いて見えていた商品が買った後には脱価値化されゴミにしか見えなくなる、ということになるのかな。