サルトル『ユダヤ人』

 今、誰かひとりの男が、国家や自分の不幸の全部、あるいは一部を、共同体におけるユダヤ分子の存在に帰したとする。あるいは更に、その不幸な状態を改善するには、ユダヤ人達から、かくかくの権利を取り上げるとか、かくかくの経済的、あるいは社会的地位から遠ざけるとか、領土から追放するとか、あるいは、皆殺しにすべきだとか提案したとする。すると人々は、この男が、反ユダヤ意見の持ち主だというであろう。

 この意見という言葉は、いろいろなことを思わせる。たとえば、一家の主婦は、議論が険悪な空気を帯びてくると、この言葉でその場を救う。すべての見解は同じ価値を持つものであることを、この言葉がほのめかすからであり、また好みということの中へ、思想を含めてしまって、それに無害な外見を与えるからである。好き嫌いなら生れつきで、従って、どんな意見を持とうと許される。趣味とか、髪の色とか、意見とかは、論じてみても仕方がないということになる。

かくして、民主主義機構の名において、また、言論の自由の名において、反ユダヤ主義者は、ユダヤ人攻撃の十字軍の必要を、いたる所で説き廻ることを当然の権利と心得る。