メモ 中立厨 人生から何ものをも選択しない人間

「中立厨」という倒錯

最後に、3・11の時には対立軸を示すことで自らは中立の地点を確保していると見せかけた2ちゃんねる(現5ちゃんねる)の人々は自らを「中立厨」と提示していたことを思い出そう。

これは別なる「STM言説」の産出であった。すなわちそれは、社会と超絶した「別の(来るべきさらなる?)科学性」「冷静さ」を主張する、しかし精神分析的に言えば「倒錯的な言説」であった。「倒錯」とは、子どものような全能性への希望を捨て去ることができず、現実の限定性を受け入れて成熟した大人になれない人が、自分の全能性願望が否定されないように他の場所に絶対性を担保して、それに自分が従う形で、現実を否認する形態である。

このような振る舞いは、昨今の政治運動に対する冷や水的発言としてよく見られる、「運動が冷静でない」式の反対発言が出て両者が対立してきた時、さらなるマウンティングとして出てくる機制である。彼らは文脈を廃した部分的な知識や情報の「絶対的正しさ」を主張するのみで、結果的には現実の行動からは退避する。

なおこの傾向は、2ちゃんねるのコミュニケーション弱者の特徴としてだけでなく、他者忌避傾向の中で主体形成を行ってきた、若い学者の言説においても見られるようになってきている(この問題は詳しくは樫村2019の第1章も参照されたい)。自分たちの「正しさ」に固執し、現実の政治や行動は忌避する。背景には自分が否定される不安の隠蔽と防衛がある。はっきり言って社会の側から見れば害でしかない。

政権への批判が「感情的」「誹謗中傷」とされる、日本の倒錯的状況(樫村 愛子) | 現代ビジネス | 講談社(6/7)

 

 

おかしなことであるが、急に別離が私にはたのしみになった。隠れんぼをするときに、鬼が数をかぞえ出すと思い思いの方角へ皆がちらばるあの瞬間のたのしさに似たものだ。私にはこんな風に、何事も享楽しかねない奇妙な天分があった。この邪まな天分のおかげで私の怯懦は、私自身の目にさえも、しばしば勇気と見誤まられた。しかしそれは、人生から何ものをも選択しない人間の甘い償いともいうべき天分なのである。

三島由紀夫仮面の告白