他者による無視や放置はトラウマ(心的外傷)を形成しない、のか?

これらのことから言えることは、「いじめ被害」という体験が看過できないほど大きな要因と
して存在しているということである。しかし、「いじめ被害」という体験とひきこもりを直接的
に結び付け、心的外傷論(Herman,J.L.1992、van der Kork,B.A.ら 1996)の枠組みで捉える
ことには慎重になるべきであろう。第 3 章で述べたように、ひきこもりの若者たちが語る「い
じめ被害」の内容は、身体的あるいは心理的に攻撃されたという経験よりも、無視あるいは放
置されたという経験のほうが多く語られているからである。攻撃された体験であれば心的外傷
論の枠組みで捉えることができるが、無視や放置という体験には別の理解が必要であろう。

「ひきこもり」についての理解と支援の新たなる枠組みをめぐって : 心理‐社会的な視点からの探求

村澤和多里 

https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/66165/1/Watari_Murasawa.pdf

 

最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」『日時計の影』所収 )

 

乳児が母親の不在に直面するという体験は、人間にとって根源的なトラウマと言っていいだろうが(?)、学校でクラスメイトたちに無視されるという体験がその根源的トラウマ(?)を呼び起こす(二次受傷)、ということはないのだろうか?