古屋健三『青春という亡霊』

 

青春という亡霊―近代文学の中の青年 (NHKブックス)

青春という亡霊―近代文学の中の青年 (NHKブックス)

 

 ビオンの「ベータ要素」と「アルファ機能」を連想

一般的に青年が社会に対する不満を思想としてぶつけるかぎり、それがどんなに過激で、反社会的な内容であっても、社会そのものをつき崩す力はない。新しもの好きで、お節介な大人たちが寄ってたかって元気よく産声をあげて暴れる表現に産湯をつかわせ、産着を着せ、ミルクをのませておとなしく眠りこませてしまう。

(P215)  

 

こちらからはウィニコットの「移行対象」「ひとりでいられる能力」を連想してしまう

 このフィリピンの戦場に送られてくる直前まで、大岡は「スタンダールバルザック」「『赤と黒』のモデル」など、堅実な文学史的知識に裏づけられた論文を書いていた。やがて戦場に駆り出される成りゆきを予期してひとつひとつ遺書のつもりで書いたと言うが、それにしてはそれはなんとよそよそしい、他人ごとの論述だろう。大岡の肉声は完全に抑制され、まるで死人のように、だれでも書ける文学史的知識が篤実に書き連ねられている。大岡が自分の肉声をとり戻すのは戦場で他にすがるもののない孤独のなかであった。大岡はそれまではいつもだれかと一緒に居るか、傍にだれかいなくてもだれかの書いた本をかならず横においていた。『青春』の軽薄さは主人公のだれひとりとして身のおき所のない孤独に苦しめられていない点にある。それに対し、「捉まるまで」の深さはわが身ひとつで死命を決しなければならない絶対の窮地に追いこまれて、誠実にあがいているところにある。

(P304-305)

 

ある種の音楽もこういうものかも

プルーストは深入りし、心酔しなければ、なにも与えてくれない作家で、その点、『失われた時を求めて』が信仰の対象である大聖堂にたとえられるのは正しい。

(P286)

 

青春の条件

あなたの心はザルツブルクの塩坑に負けないくらい、深く暗いだろうか。そのあなたの限りなく深い心に、だれかが、なにかが枯枝を投げこんでくれそうだろうか。あとは二、三ヵ月の間その投げこまれた枯枝を心の底にじっと保つ忍耐があなたにあるだろうか。この三つの条件をクリアした人は、灰色の日常から出て、ダイアモンドのように輝く青春という時間に出会えたはずである。だから、青春とは生理的な年齢とは関係ない。八十歳の青年もいるのである。

(P293-294)

 

永井荷風

荷風は青春のドラマの作者であったことも、俳優であったこともなく、じつに見巧者で、口うるさい観客でありつづけた。自分は安全な場に身をおいて、青春の滴るようなエッセンスを貪り吸った。荷風は青春のグルメであった。青春のドラマの季節が過ぎ去ったいま、もしわれわれが青春を追懐するとすれば、もっとも効果的な方法はほかならぬ荷風のこのスタンスかもしれない。

(P298)