メモ帳

メモ帳です。

 

Q:内沼先生が対人恐怖というわけなのですか?

A:いや、そういう風に聞こえたとしたら間違えです。「対人恐怖学」のお師匠さんです。彼の名著「対人恐怖の人間学」を読んだことが、私が精神科医としていわゆる精神病理学を学ぶ出発点だったわけです。その本の中で彼が、三島由紀夫サルトルニーチェを引いて、彼らの文学にいかに対人恐怖的な心性が働いているかを論じたのです。

岡野憲一郎のブログ:気弱な精神科医 Ken Okano. A Blog of an insecure psychiatrist: 対人恐怖とは何か?(6)

 

  「私達は『見せる/見てもらう』と『隠そうとする/見られてしまう』という体験を常に持っている。」

 乳幼児に関しては、母親に見てもらうことがすなわち生きることである。「私が見られているから、私は存在する」(ウィニコット(1971)「遊びと現実」)。ところが子供はそのうち秘密を持つようになり、様々な心の内容を抑圧するようになる。「~を表現したら~(という良くないこと)が起きてしまう」という因果律的な思考をデフォルトで備えるようになった幼児は、自分のすべてを隠すことなく見せてしまったらよからぬことが起きるかもしれない、という思考が常に生じることで「隠そうとする/見られてしまう」の割合が増えてくるのだ。

岡野憲一郎のブログ:気弱な精神科医 Ken Okano. A Blog of an insecure psychiatrist: 地獄は他者か 推敲 3

 

 

グローバル企業で昇進するにはPIE(パイ)が重要だと言われます。パフォーマンス(P)=仕事の実力、イメージ(I)=印象、エクスポージャー(E)=どれだけ目立っているか、の3つです。注目すべきは、それぞれが持つ重要度の割合です。  

 

・仕事の実力:1割

・印象:3割

・どれだけ目立っているか:6割

 

「どれだけ目立っているかが6割」とされているのです。

悲しい現実「目立つ奴ほど昇進する」の深い意味 「自己アピール上手の実力者」が山ほどいる世界 | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン

政治家、政党の支持・不支持も結局こういうことで決まっているのではないか…

 

思春期前のこどもの精神状態は「何か素晴らしいことが起きるだろう」という感覚を特徴とする。それが思春期に突入して10代を進んでいくうちに、やがて何も素晴らしいことなど起きないという自覚に襲われる。それが「大いなる落胆」の瞬間だ。・・・思春期は子供が自分の能力と自身の限界について学ぶべき時期だ・・・過度にゲームをする若者はしばしば、妥当性の確証を得るための手段に対し障害となるものはすべて避けようとする。

男子劣化社会 - Propositum

 

おもしれー事になるだろうと

ふんぞり返ってたぜ

余裕かまし

もてあまして

人生長えとタカくくってたぜ」

(「手おくれか」Theピーズ))

 

ゲーム機器に関して親が決して行ってはならないのは、単にそれらを取り上げる、もしくは息子にきっぱりゲームをやめさせることだ。もしその子にとってゲームが自分の思い通りになり、報われ、ハッピーだと感じられる唯一の場所なら、そのすべてを取り上げることは打ちのめされるほど大きな打撃になりかねない

男子劣化社会 - Propositum

 

私と違って、お前は何でも思い通りにしてよいというコミュニケーションは、とりわけ破壊的で、何でも思い通りにできる人間や時代は存在せず、非現実的な目標に自尊心が左右されるのである。

in and out program | 【自己愛性パーソナリティ】

 

 (3)成熟した孤独mature aloneness

成熟した人の孤独は、楽しめるものでさえあるのに対し、境界例の孤独は、空虚感、絶望、自暴自棄によって特徴づけられ、その内的体験は、次のような特性を持っているとAdlerは考える。

a)過去から現在にいたる生活の中で、自分を抱えて(ホールドして)くれた人々のイメージや記憶が、全面的に奪略され、空想の中ですら再現できない、という感じ。b)そうした人々の、破壊的で、怒り狂ったイメージばかりが思い出される。

c)自分の中の怒りが、過去から現在にいたる生活の中で重要であった人々のポジティブなイメージを、自ら進んで破壊している、と体験される。

  こうした境界例の孤独を説明するのにAdlerは、喚起記憶evocative memoryの役割を目の前にした時のみ呼び起こされる認知記憶に対し、喚起記憶は、外的な対象なくしても、その対象表象を心的内界に喚起することができる。幼児が20ヵ月ぐらい(再接近期)から、母を離れて自分の世界を探索し始めるとき、この喚起記憶がある程度育っていることが前提となる。

 この喚起記憶が正常に発達し、心的内界の対象が恒常性を持ち始めれば――つまり、対象に向けられ、ポジティブな気持ちを、対象なしに、もっと言えば、対象にネガティブな気持ちを向けている時でさえ、保持できるようになれば――幼児の対象表象世界はかなり安定する。

 自己愛パーソナリティ障害・境界例スぺクトラムにおいて、喚起記憶は、境界例に近づくほど脆弱である。

今日の散歩と、【「自己対象は、自己に欠けている機能(たとえば緊張緩和・自己評価調節)を補足するものとして体験される対象であり、それを人格特性は無視される」。】 - うたた ka-gu’s diary

 

第8章 悼み悲しむこととメランコリーとの葛藤   おそらくひとがみな向き合うことが難しい〈人生の事実〉の、その最も中心には〈時と移ろいthe passage of time〉*がある。この〈時の移ろい〉こそが、対象が失われ、究極的には死は避けられない、という現実を突きつけるからである。   ひとは対象が永続し、自らは死なないと空想して現実から自分を守り、こうして現実を否認し、あるいは受け入れるのを先延ばししようとする。この万能的な解決法は、自己愛的なタイプの〈病理的組織化〉によって提供されるが、これにより〈時の移ろい〉という現実は否認される。   かのようにして、喪失に直面し、〈悼み悲しむことmourning,悲哀、喪が悲しみ〉に関わる苦痛な感情すべてに向き合わなければならない、という事態は回避されてしまう。~

作品作りと、「ロックとは、音楽においても人生においても、先人のやり方に倣うのではなく、自分の道を切り開くことを言う」と、【ひとは対象が永続し、自らは死なないと空想して現実から自分を守り、こうして現実を否認し、あるいは受け入れるのを先延ばししようとする。】 - うたた ka-gu’s diary

ニーチェの「永劫回帰」の概念は死の否認から出てきたものではないだろうか?(知らんけど)

 

1924年の論文「マゾヒズムにおけるエネルギー配分の問題」において、フロイトはもう一度転換をみせる。この論文でフロイトは、快感原則を死の衝動と結びつけるのをやめて、生の衝動と結びつけたうえで、生の衝動こそが、生き物にとって本源的な衝動だと、主張を変化させた。これは重大な軌道修正だと思うのだが、フロイトはあまり立ち入って説明していない。さらりとした感じで、生き物なのだから、死ぬことではなく、生きることこそが目的なのは当然だというような口ぶりを見せているだけである。

フロイトのマゾヒズム論ー知の快楽

 

自己愛人格障害の場合には、 自我境界は安定しており,現実検討も保たれている。 ただ, 「原始的な自我理想と自己が退行的に融合」 (Reich, A., 1960) しているのが正常とは異なる。 自己愛人格障害の特徴は, 通常なら超自我のなかに位置づけられて自己との緊張関係を生み出すべき理想自己像や理想対象像が現実自己像と融合し、誇大自己という肥大した自己概念を形成していることである。 このような融合が生じた原因は,自我境界が安定した段階で対人関係領域で耐え難い欲求不満などが生じたからである。 患者は空想のなかで自己と理想像とを同一視し, 外的対象および外的対象の表象を無価値化し, それへの依存を拒否するのである。 欲求不満と怒りに駆られた自己像の受け入れ難い部分は抑圧され, 外的対象に投影される。 彼らの自己は,フラストレートされたことによる無力な怒りに満ちており,また, それが外的世界に投影されるため、周囲の世界も怒りと復讐心に満ちたものと見えてくる。ただ,自己概念のこうした深いレベルは,精神分析の後期にならないと把握が困難である。 境界例の患者と違うのは、 身体的魅力, 特殊な才能, 生まれつきの素質などが,補償的役割を果たしていることである。 それは, 母親が子どもを自己愛的に 「特別」 扱いしたために生じた性格防衛であることが多い。外的対象および内在化された対象の無価値化と破壊その結果、 対象表象は生気のない影のようなものとなる。彼らにも理想化し 「依存する」 人々はいるが,その人々というのは彼らの肥大化した自己概念を投影された人々にすぎない。正常な場合には, 理想自己と理想対象は超自我に吸収され, それに到達すると幸福感を生み出すような超自我の愛情的側面となる。 自己愛人格では,超自我の愛情的側面が乏しいため, 親の禁止的要求は迫害的・攻撃的なものとして内在化され, 超自我は過酷で攻撃的なものとなり, パラノイド的投影の形で外界に投影されやすい。 超自我の欠陥を抱える人が、 自分への尊敬, 賞賛, 承認などを求めて、 他者に過度に依存的になることを指摘する点では, Kernberg も Kohutも一致している。

ジコアイ ノ ハッタツ ト ショウガイ オヨビ ソノ ソクテイ ニカンスル ケンキュウ ノ ガイカン [1] - CORE Reader

 

強迫症の心性には規則の正確な遵守、一分の隙もない礼儀正しさ、一点の汚点も許さない清潔さの仮面の裏に意地悪な幻想、血なまぐさい空想が仄見える」(P380)

「処方」としての中井久夫ーその2はないかもしれない、その1-『徴候・記憶・外傷』(みすず書房)を中心にー – 本屋unlearn開店準備日記

 

 自己愛の病理は関係の中に出てくる。それは、愛することができないこと、他者の気持ちに対する共感と配慮、他者の考えに対する真の関心、投げ出すことなく長期にわたる関係における両価性に耐える能力、対人関係における対立に自分自身も一因となっていることを認める能力などによって、健康な対人関係と鑑別できる。

in and out program | B群人格障害 自己愛

 

(1)自己愛心性:他者の肯定的な評価をひたすらに追い求める。他者は生きている様々な側面を持った人間とは見られず、状況によって極端に理想化されたり価値下げられたりする。他者の評価を恐れるために、極端な完全主義に走ったり(自己を受容しようとするのではなく、 自己を完全なものにしようとする)、結果として自虐的になったりする。一見適応している 場合もあるが、むなしさ(不足、恥、弱さ、劣等感、羨望の感覚または恐れ)はなくならな い。人間存在の曖昧さの中に喜びを見出せない。人を上から判断したり利用したりせずに受け入れるとはどういうことか、理想化することなく人を愛するとはどういうことか、恥を感じることなく本当の気持ちをあらわすとはどういうことか、全くわからない。すなわち偽り の自己を生きている。必要を感じて治療を受けようとする場合も、その目的は自己を理解することではなく、自己を完全なものにするために自己の欲求を扱うより効果的な方法をみつけることであることが多い。

 治療者が彼らを受け入れれば、それが親しさというものを情緒的に理解するためのモデル になる。このため、治療者は、自分が関係に参加させてもらえないという疎外感に耐えつつ、 自己対象機能を提供し、こうしたありようを解釈していくことが望ましい。

https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/mikeda12.pdf

 

McWilliams(1994)によれば、ペニス羨望という Freud, S の概念は、フェミニストからはしばしば批判 されるが、実際は Freud, S が家父長制に負のイメージを持っていたために、ペニス羨望を解釈することで、 男性の方が何も実際により優れているわけではないことを患者に気づかせたいと願っていたという。

https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/mikeda12.pdf

 

ローゼンフェルドの症例はかなり提携的で分かりにくい。クライン用語の羅列、という気さえする。以下はその例である。

 ピーターはかつて精神病のエピソードを体験した。それからの分析のプロセスで、彼は多くの陰性治療反応を起こした。つまり彼は治療が進展すると、何も考えられなくなってしまうのであった。徐々に明らかにされたのは、彼の人格には極めて傲慢で優れている arrogant and superior 部分があるということだった。その部分は彼自身に、精神分析の解釈が誤りであるとささやきかけた。彼の精神分析における信頼感と協力が増し、私からの助力を受け入れようとすると、彼の全能な部分が、彼が弱くて劣っていることを批判した。ピーターはあまりにひどく馬鹿にされたため、彼が次回のセッションに現れたときは、ショックを受け、打ちのめされ、ほとんど粉々にされてしまった気がした。 ・・・彼は週に一人や二人、売春婦を買うという生活をしていた。彼は娼婦との間で自分の征服欲を満たし、完全にコントロールするというファンタジーを満たした。彼は自分のある部分から脅しを受けていた。それは彼がいかなる前進も放棄し、特に分析家とのよい関係を諦め、全能で自己愛的な部分が支配するようにし、無制限のマスターベーションによる快楽に浸りさえすれば、すべてがうまく行く、という脅しを受けていたのである。しかし治療が進展すると、外界の人々に対する殺人的な怒りが出現し、それにより彼は誰かを殺したのではないかという脅迫的な不安に襲われた。このような殺人的な怒りは、彼が他人と自分に比べ、優れていると感じたときに生じた。つまり殺人的な全能の羨望は、彼の自己愛的な全能のコントロールにより隠されていたのである。

岡野憲一郎のブログ:気弱な精神科医 Ken Okano. A Blog of an insecure psychiatrist: ローゼンフェルドの自己愛理論 ⑧

 

 自己愛をその破壊的な側面から考える場合にも、われわれは自己の理想化が中心的な役割を担うことを見いだしたが、そこで理想化されるのは自己の万能感的で破壊的な側面である。これはあらゆる肯定的でリビドー的な対象関係や、自分は対象を必要としておりそれに対する依存欲求を持っていることを経験できる、自己のリビドー的な部分に向けられている。自己の破壊的で万能感的な部分はしばしば仮面をかぶった状態で存在し続けたり、黙して分裂排除された状態で存在しているために、その存在自体があやふやで、外界と全く何の関係もない印象を与える。実際には、この自己の一部分は、自己が対象に依存する関係を結ぶことを妨げ、外的な対象を永久に脱価値化し続けることにおいて、絶大なる力を発揮する。自己愛的な個人が、外の対象や外界に対して明らかな無関心を示すことは、このことから説明できるのである。

梅の花と、『第6章 破壊的な自己愛と死の本能』(治療の行き詰まりと解釈より』 - うたた ka-gu’s diary

ローゼンフェルド

 

 自我の完全性の欠如や喪失は、絶望という形で、そしてしばしば、死への恐怖、という形で顕れる。絶望とは、自分の1回限りのライフサイクルを受け容れられず、別の人生を試そうとしても、もはや時間がなくなりすぎてしまった感情を意味している。このような絶望は、しばしば人嫌いや、特定の制度や人々に対する慢性的軽蔑を込めた不快感などの背後に隠れている。このような憎悪や不快は、建設的な考えや協力的社会生活とは結び付かない、各個人の自信に対する軽蔑を意味している。

「自我同一性」EH・エリクソン | 精神分析学講座 (nakamoto-masatoshi.com)

中島義道先生・・・

自信→自身 の間違い?

 

 また人の世の勝敗が問題なのではなく、よき戦いを戦い、走るべき道を走り、最後まで人生を投げないこと、そして、高めることのできない、いかなる苦悩もないこと、・・・・・・これも訴えたかったことである。

(霜山徳爾『明日が信じられない』)

 

サリバンが描写する不適応な人間は、例えば、①他者とはその場限り の関わりしかもてない。②自己中心的な幻想を抱く。③自分より劣っていると思う人間としかつき 合えない。④反抗を通して当面の対人場面で自己の重要性を確認する。⑤野心を抱き、他者を利用 する。⑥ながびいた理想の追求をする、などである。

https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/641/641PDF/yagi.pdf

 

 悲しいことだが、海外には日本人に近づいてお金にしようという日本人もいることを心しておきたい。海外経験が豊富な人の口から決まって飛び出すのは「一番信用できないのは日本人」という言葉なのだから。

海外生活に向く人、向かない人 | 日本を脱出する方法 | ダイヤモンド・オンライン

 

日本人は「忘れやすい」と言われるが、メディアも同じで、いっとき大騒ぎするだけ。ことの本質、解決、決着に関しては、じつはどうでもよいのだ。メディアには、政治家と同じように、正義感、使命感などない。メディア経営者が気にするのは、自社の売り上げ、業績だけである。      この国には四季がある。そのため、すべての出来事は、季節と同じように移り変わるものと考えて、一つの話題が終わると次の話題へと移っていく。それが繰り返されるだけだ。   そうした見方から言うと、今回の「政治とカネ」問題も、いずれ風化する。そうして、混沌状況が深まるだけで、それがだらだら続いて生き、それが日常になるだけだろう。

[422]もう年末。この3カ月で日本も世界もまったく不透明に!もう見ているだけしかない。

 

ここでは破壊欲動は、エロース(性欲動)との混合によってでしか昇華されないととが 読み取れる。すなわち、破壊欲動単独では部分的にも昇華されないということが示されている。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/147327/1/bkr00007_045.pdf

 

 アルコール嗜癖から比較的治りやすい人は、
(1)家族や友人に見放されていない人(人間的魅力が残っている)
(2)趣味、特にがまんして待つ趣味をもつ人(釣りは魚がくいつくまで待たねばならない。つまりイライラに耐える力がつく)。男らしさを見せびらかすような趣味(猛犬を飼う、スポーツカーの運転をするなど)はあまり役に立たない。
(3)特定の理由で飲む人(苦手な場面をさければよい)。どんな種類の嫌なことがあったも酒びんに手を出す人は治りにくい。
(4)医者に通いつづける人(病気の自覚がある)である。

アルコール依存症と男性性(2) - 熊田一雄の日記

 

分析者がこの悼みのための時間を焦らずに十分長くとり、またその間、必須の原初的雰囲気を寛容と干渉的でない解釈によって維持できるならば、患者と分析者の共同作業の仕方は以前とは少しずつ変わってくる。それは、まるで、患者が対象との関係における自己の位置付けを進んでやり直し、自己の周囲の、魅力を欠き冷淡なことの少なくない世界を受容できないかと考え直そうとし、またその力が出てきた気がしはじめたことを思わせるような変化 である。

http://chitose1960.web.fc2.com/jhp21asegabalint_2.pdf

 

・躁的防衛
 健康な発達に必要なことは、ある種の真面目さ、自己について疑いをもつこと、黙想に浸る時間を必要とすること、一時的に希望のない局面に陥りやすいことなどがある。抑うつ潜在的で、人格の中核にあり、ある種の真面目になる能力として表面化する。否認された抑うつは、幸福感と休みのない活動性と一般的な元気のよさの背後に隠れている。元気のよさを強調することの背後に抑うつの否認が隠されている。躁的防衛において否認されている中核は、内的な死であり、死の否認がある。

in and out program | 人間の本性

 

圧政者はそれを成功させるためにひとびとの心の悲しみを必要とし、悲しみに心をとらえられたひとびとはそれを助成しその輪を広げるために圧政者を必要とする。いずれにしても、この両者を結びつけているのは生に対する憎しみ[嫌悪]、生に対する怨念(ルサンチマン)の念なのである。『エチカ』には、あらゆる幸福がその眼には侮辱としてうつり、ただひたすらみじめさや無力感をおのれの情念として生きている怨念の人の肖像が描かれている。「人の心を励まして強めるどころか、それを打ちくじく術に長けたこうしたひとびとは〔他のひとびとにとって不快なだけでなく〕自分でも自分がいやでならないのだ。そういうわけで、多くの者たちが〔性急さや誤った宗教熱から〕人間のあいだより獣たちのあいだで生きる道を選んだのである。それはちょうど、親の叱責を平静な心で耐えることのできない少年や青年たちが、逃避して軍隊にはいり、家庭的にはいり、家庭的な幸福や父親の忠告より戦争の苦難や暴力の権力を選んで、ただ両親に復讐したいがためにどんな労苦も甘んじて受けるのにも似ている」。

 (『スピノザ―実践の哲学』)

 

2017年、バーミンガム大学は、シロシビンの使用が犯罪行為の減少と必然的に関連していることを示唆する研究を発表した。全国薬物使用と健康調査によって収集されたデータを使用して、研究者らは48万人以上の米国成人を対象に、サイケデリックとの過去の関係について調査しました。これには、アヤワスカ、ジメチルトリプタミン、LSD、メスカリン、ペヨーテ、サン ペドロ、シロシビン マッシュルームなどの物質が含まれていました。他の違法薬物は犯罪行為の増加と関連しているが、研究者らはサイケデリック物質がこれらの行為をさらに減少させることを発見した。これらの物質の使用により、暴行の可能性が 12% 減少し、その他の暴力犯罪が 18% 減少し、窃盗や窃盗を犯す可能性が 27% 減少し、その他の犯罪を犯す可能性が 22% 減少しました。財産犯罪。 %減少しました。これらの発見は、法医学や臨床現場におけるサイケデリック療法のより大きな目的を示唆しています。前回の2014年の研究では、研究者らは薬物使用歴のある刑事裁判官のコホートを対象に、再犯と自然主義的幻覚剤との関係を調査した。彼らは、サイケデリック薬物は再犯率の高いグループの向社会的行動を促進すると結論づけた。幻覚剤の使用は、元犯罪者の監督失敗を減らすことが示されています。これは本質的にアルコール使用を含む薬物の禁欲を促進し、再犯率の増加につながります。 2022年の研究では、古典的なサイケデリック物質の使用と犯罪逮捕の可能性の低下が関連付けられています。この研究は、シロシビンの生涯使用により、逮捕変数 11 個のうち 7 個が減少したことを示唆しています。ペヨーテの使用により、飲酒運転や車両盗難の可能性が減少することがわかっています。最後に、メスカリンは薬物の所持/販売を減らすことが判明しました。犯罪行為の減少と正の関係を示した物質は他にありません。

https://academic-accelerator.com/encyclopedia/jp/psychedelic-therapy

 

顎関節症は、顎の不調から顎関節周辺の筋肉の緊張により血流が悪化して頭痛が発生します。そのため、開口体操をおこなうことで筋肉の緊張が緩和されて改善を促すことができます。ただし、体操することにより顎関節負担をかけてしまうと逆効果ですので、無理のない範囲でおこなう必要があります。  開口体操のやり方 ① まず口を開けられる範囲で開いて15秒間静止します ② そのまま口を閉じずに下顎を前にゆっくり突き出して15秒間静止します ③ 突き出した顎を引っ込めて①の状態に戻して15秒間静止します ④ 下顎を右にゆっくりとずらして15秒間静止します ⑤ 下顎を左にゆっくりとずらして15秒間静止します  これらを1セットとして、一日3回無理のない範囲で1週間ほど続けます。  マッサージをする 顎関節症による頭痛を軽減する方法の一つに、マッサージがあります。マッサージをおこなうことで、顎関節から側頭部にかけての筋肉のこわばりをやわらげて頭痛を改善することができます。  マッサージは、 ① まず、入浴をして全身を温めてリラックスします。 ② 蒸しタオルや使い捨てカイロなどを患部に当てて、5分間を目安に温めます。 ③ 親指の腹や、人差し指から薬指までの四指をそろえて患部に当てます。軽い力で患部を中心に顎関節や側頭部をゆっくりと押す・回す動きを繰り返してマッサージをします。

顎関節症で起こる頭痛の原因と症状について詳しく解説 | 新宿デンタルオフィス~顎関節症・噛み合わせ矯正治療センター

 

・内的な良い対象

 一人でいられる能力は個人の中の心的現実に良い対象がいるかどうかによって決まる。 個人の中に内的対象との関係ができあがると、内的関係に対する自信が生じてくると共に、それ自身満足な生活が可能になる。 すると一時的に外界の対象や刺激がなくても安心して休むことができるようになる。 成熟や一人でいられる能力は個人が適切な母親の世話を通じて良い環境を信用する機会をもったということを示している。 この信用は充分な本能満足が繰り返しなされてはじめてできる。

in and out program | 一人でいられる能力

 

一人でいられる能力は、誰か他の人と一緒にいて一人でいるという体験を基盤にし、満足なこの体験のない限り一人でいられる能力は発展しないという逆説なのである。

in and out program | 一人でいられる能力

 

 対象喪失の喪mourningは、失われた対象が非自己であることを受け入れることである。鬱病は、対象の喪失自体によってではなく、喪失を認める能力の障害によって起きる。鬱病において世界への関心が復活しないのは、自分の思い通りにならない対象への憎悪が愛情を上回るからである。抑鬱ポジションの成立には、対象への自己愛的な憎悪を乗り越える必要がある。離乳の比喩を用いれば、自分が得ることができるのは母乳であって乳房そのものではなく、乳房は自分と分離した存在であることを受け入れなければならない。

 

 自己と対象の区別・分離性の認識は、対象が自己を排除した第三の対象との関わりも持っていることを認めることと同じである。これはエディプス状況であり、父親が登場する。

福本修のホームページ

 

ジェンダーアイデンティティ (genderidentity)についての研究からも
同様の事実が指摘されている。男子の場合を例にとると,男子は,発達
早期の母親理想化と母親同一化から脱却し,同一化対象を父親(的人物)
に置き換えることによって,男性としてのジェンダー・アイデンティテ
イを形成する (Greenson,1968)。父親が男性像のモデルとなることができ
ないなら,母子の共生関係が遷延し,ジェンダーアイデンティティ
障害につながることがある (Stoller,1968;及川, 1983)。
これらの研究を継承し,また自分自身の臨床経験に基づいて, Blos
(1985)は,男子の前エディプス期における父親への愛着・理想化が男子
の発達にとって本質的な意味をもっと主張する。父親に保護され導かれ
ることによる安心感や向性としての一体感は,男子のジェンダー・アイ
デンティティや自尊感情の発達にとって重要なものである。とくに,父
親への理想化とそれからの脱却は,精神分析で自我理想と呼ばれてきた
心的構造の形成に深い関わりをもっている。まず父親を理想化し,次第
に理想化から脱却するとき,父親の理想化された側面は人格性を伴わな
い心的構造に変容するが, Blos (1974) はこれを自我理想と呼ぶ。自我
理想、は,理想、,価値,目標などとして経験され,自我理想が形成される
自尊感情を維持するのに父親の承認や賞賛を必要とする度合いが減少
し,自我理想、に到達しようとすることが自尊感情を支えるようになる。
したがって,父親を理想化できないか父親への時期尚早な失望を体験

する場合や,逆に父子の結びつきが濃密すぎて脱理想化ができない場合
には,自我理想が十分に形成されず,理想化された父親への希求がいつ
までも残存することになる。Blos (1985) は,このような事態を「父親
コ.ンプレックス J と呼ぶ。Blos (1985) によれば,このような父親コン
プレックスからの脱却と成人としての自我理想の形成という発達課題
は,青年期まで持ち越され,青年期の重要な発達課題になる。父親コン
プレックスをもっ男性は,とくに母親との共生的関係にのみ込まれてし
まう不安に脅かされやすく,それに対する防衛が必要になる。そうした
防衛の例としては,女性を性的に征服しようとする強迫的性行動や,逆
に女性との関係の回避や向性愛的空想への没頭などがある。 Blos(1985)
の臨床経験によれば,父親コンプレックスの解決とともに成熟した異性
関係も可能になるという。

自己愛的脆弱性の心理療法と査定に関する自己心理学的研究 - 広島大学 学術情報リポジトリ

 

【感謝】

 感謝は、良い対象との関係をつくりあげるにあたってなくてはならないものであり、他人や自らのうちにその良さを認めるにあたっても、その基盤となる。 愛する能力が発達して、はじめて完全な楽しみを体験できるのであり、しかも感謝の基盤になるのが、この楽しさなのである。 その後に続く一体性を可能にし、幸福な愛情関係や友情にはなくてはならないものである。 これらの体験は語る言葉を必要とせず、言語以前の段階における母親との関係に由来するものである。 授乳に際して、さまたげられずに楽しむことがよく体験されている場合、かけがえのない贈り物をもらったと感じられる。 それは感謝の基礎となり、良い人物への信頼と密接に関連する。

これには、愛する対象を受け入れ、同化する能力が含まれている。 乳房が良いものであるという信念の基礎になっているプロセスは、幼児が最初の対象にリビドーを賦与する能力に由来する。 このことが自分自身の良さへの信頼の基礎となる。 乳房での満足が体験されると、楽しみや感謝が生じてくる。

in and out program | 独解『羨望と感謝』

 

モネーカイルは、『乳房が至上の良い対象であると認める羨望と、両親の性交が至上の創造的行為である嫉妬と、時間の経過と死が避けようのない万能感の3点をワークスルーすること』。

in and out program | 精神分析の目標と副作用

 

 母親が居なくなってから戻ってくることや、養護し、関心を払っていることなどによって、乳児が自分の破壊的な衝動は万能的な力がないことを認識していく。さらに、同じように魔術的な修復も、自身の愛情も、万能的な力をもっていると思い込んでいる傾向が減っていく。自分の愛情や憎しみが限界をもっていることを知り、衝動が外界の現実に与える影響が分かるようになる。抑うつ態勢が十分に体験されると、衝動を自分のものとして認め、罪悪感に耐えることができる。

in and out program | 抑うつ的態勢

 

 こうした考えの基に、フェレンツィ(1924)の性理論『タラッサ』において、幼児の初めの 愛は本質的に「受身の対象愛」であるという対象関係論がある。バリントが「新規蒔き直し(new beginning)」と命名した治療の最終段階において、最初期の対象関係の本性が明らかになること を見出した。その形式はほとんど全面的に受身的であり、「患者は愛することではなく、愛される ことを願う」という。バリントは、この受身的願望が性的、リビドー的であることは確実である というが、ふつうの官能的あるいはエロス的といわれる意味のものに対応せず、フロイトが「やさしい(tender)」「目的を抑えられた(aim-inhibited)」と呼んだものを指すとみた。この 受身的対象愛は満たされないと熱情的な反応を呼び起こすが、逆に満たされると、ただ静かで 穏やかな感じとなる。ところが、教育者も精神分析家も、児童が熱情的に要求がましくなると、 これは一次的なものであって、攻撃性の徴候であり、ひいては生得的サディズムの徴候だとみて しまったという。ここにはクラインを中心としたイギリス学派への批判があろう。  フロイトが児童の最初の時期を「多形倒錯的(polymorphous-perverse)」と呼ぶ一方、他方では 「自体愛的(auto-erotic)」「ナルシシズム的(narcissistic)」とも呼んだことに対して、バリントは、 この見方が欲動の領域、生物学だけしか見えていない用語だと批判し、リビドー的には子どもは 外界からの介護に完全に依存しており、それなしには死ぬほかないと指摘する。この一次的傾向性、 すなわち、「私はいつも、どこでも、あらゆる形で、私の全身体を、全存在を愛してほしい、それも 一切の批評がましさなさに、私の側から僅かにでも無理する必要なしに」というのが、「エロス的 努力の最終目標である」とバリントは理解し、この受身的対象愛(passiveobject-love)は生涯 を通じて残るものであるという。バリントは、この最終目的に到達するためのバイパス(回り道) の一つがナルシシズムであり、「世界の方が十二分に私を愛してくれず、満足をあたえてくれない のならば、私が私自身を愛し満足させてやる他にないではないか」という。つまり「リビドー的 な意味でのナルシシズムは必ず二次的性格」であるとして、一次ナルシシズムの理論を否定した。

http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/gk01803.pdf?file_id=8214

 

従って偽りの自己は本当の自己にとって防壁であると同時に障壁でもある。 偽りの自己は原動力となるパーソナルな衝動性が欠如しているために,実在感を感じることがで きず,現実感も伴わない。「願望しようとする個人の能力」は妨げられ,自発性の欠如が前景化する。自己は身体性と切り離され,知性の早熟化がしばしば招来される。

https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/2113/

 

自己愛的な患者のなかには、自分たちの自己愛的な構造が、「厚い皮」(thick skin)をもたらしたために、深層心理に対して鈍感になっているものがたくさんいる。こうした患者の治療の行き詰まりを避けるためには、分析において断固とした方針で臨まねばならず、彼らの自己愛的な態度と羨望は直面化されなければならない。特に彼らの羨望が分析と分析家とを脱価値化し援助の必要性を脱価値化する場合は、直面化が必要となる。こうした患者に対しては解釈と直面化を頻繁に反復することが、たとえそのような反復が長期間患者に何のインパクトも与えないように見えても、避けられないことであろう(第4章参照)。最終的に解釈が彼らにどうにか響けば、例えそれが苦痛なものであろうとも、彼らは解放されるのである。

看板にライトと、額と、ねこさんと、【自己愛的で皮の薄い(敏感な)患者と皮の厚い(鈍感な)患者】(治療の行き詰まりと解釈より) - うたた ka-gu’s diary

 

ビオン

当初K(knowingから)結合の意義を強調した彼の関心は、情緒的な意味内容を中心としているにせよ、知ること・知っていく過程にあるかに見えた。しかしほどなく彼は「何かを知ること」と「何かについて知ること」区別し、後者を知識の防衛的な使用として、本当に経験することへの妨げと見なした。1960年代後半には、彼はK→OとO→Kという表現で二者を対比させて、精神分析行為を神秘主義と列挙しうる前者の道の一つとした。

福本修のホームページ

 

硬直した物語は,この新たなコスモスを孕んだカオスにふれることによって,結果的に書 きかわる。それは,知的な解釈の更新ではなく,身をもって知られるものであり,生きられるものである。 こうしたことが可能になるためには,「語る」ことではなく,自己に傾聴すること (自己傾聴)が必要である。つまり「自らに向かって『しゃべり続ける』のをやめること」(Gendlin1964 邦訳 p198)が必要である。「心の中で自分自身に適応すべきひとつの原則-それは『静かに黙って耳を傾けよ !』ということである」(ibid)。聴き入るべき声は,8章で言及した「内なる他者」の声である。語ることではなく,聴くことが重要なのである。

https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/2156/GKH019903.pdf

 

著者は「日本は中国と異なり、常に他の国から文化を輸入する側だったので、胸中深くでは自らの文化的アイデンティティーについての不安感で苦しんでいる」とし「全ての人を『日本をたたく人』あるいは『日本を愛する人』、二つのうちのどちらかだとみている」とも語った。「世界のどの国も、日本ほどには自画自賛する本は多くない」。だから、日本学分野の外国人学者は、主張を披露する際には注意を払わなければならない。ハーバード大学エズラ・ボーゲル名誉教授は『ジャパン・アズ・ナンバーワン』という本を書き、名士として遇された。反面、言語学者のロイ・アンドリュー・ミラーは、日本語が他の言語に比べて優れていると主張する言語学者らに挑戦する著書『Japan’s Modern Myth』を書き、「日本たたき」だとして排斥された。だから日本学者は、批判的視点を放棄したまま、日本に「転向」する傾向がある。「時折私は、『日本学』を『日本崇拝』と呼んだ方がより正確なのではないかと思う」

西欧人はなぜ日本に引かれるのか…「平和の顔」をした停滞した社会だから-Chosun online 朝鮮日報

 

 

【メモ】ウィニコットの「偽りの自己」、フィリップ・K・ディック『ユービック』

何か似ていると思いませんか?

 

一方,偽りの自己の組織化は,「ある特定の環境の失敗に対して.個人がその失敗状況を凍 結することによって自己を防衛」 (1954b邦訳 p177強調は著者) している側面をもち,これは正常で健康なことと考えねばならない。それは本当の自己が,あたかも好ましい適切な環境が現れてくるのを密かに待ち望み,そうした環境 において,かつての環境の失敗を埋め合わせようと,好機を期しているかのようである。

https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/2113/

 

 最後にハヤカワ文庫版『ユービック』の浅倉久志による解説の末尾に引用されている、P・K・ディック自身の自作解題を紹介しておきたい。長くなるが引用する。この文章を読まなければ我々は『ユービック』の本質を本当には理解できないだろうからだ。  

「われわれは『ユービック』の登場人物のように、半生命状態にあります。われわれは死んでも生きてもおらず、解凍される日を待ちながら、冷凍睡眠に入っています。季節にたとえれば、これは人類にとっての冬であり、『ユービック』の登場人物たちにとっての冬なのです。……『ユービック』の登場人物たちの上を覆った氷と雪を融かすもの、彼らの生命の冷却を止め、彼らの感じるエントロピーを押さえるものは、グレン・ランシターが呼びかける声です。ランシターの声は、毎冬、地中の種子や根が聞く目覚めをうながす声にほかなりません。……『ユービック』では、時間が無力化され、もはやわれわれが経験するように線的な前進をしなくなります。登場人物たちの死によってこれが起こったとき、読者としてのわれわれと、ペルソナとしての彼らは、マヤのヴェール、すなわち、線的時間の曖昧なもやを取り去られた、この世界を見ることになります。時間は、あらゆる現象を結び合わせ、すべての生命を維持しますが、その活動によって、その下にある本体論的な現実を隠してもいるのです。」

スタニスワフ・レム「ペテン師に囲まれた幻視者」(5) - 玄文社主人の書斎

 

「力動心理療法の危機」

確かに 1970 年代の後半から、自己愛性の傷つきに対する敏感性の高い統合失調症や行動 化の激しい境界例に対する治療展開を基盤に、精神分析療法から精神分析心理療法への 展開には画期的なものがあった。しかしその展開はさらなる発展をしているのか。当時の 精神分析精神分析心理療法の基軸における一貫性は維持されているのか。本質的なず れが生じてはいないのか。少々長い引用になるが、Freud(1918)の基軸を確認してみよう。 「ある幼児神経症の病歴より(狼男の症例);下線筆者」の抜粋である。 『もし神経症患者が、現在から関心をそらし、彼の空想の退行的代理形成物に固執すると いう困った特性を持っているなら、われわれにできることは、そのような精神過程の跡を 辿ってこれらの無意識的生産物を意識化させる以外にはないであろう。なぜならばそのよ うな無意識的な生産物こそ、それが実際生活上は無価値なものであるにしても、なお現在 の課題に患者の関心を向けさせるために、われわれが自由にしようとするところの関心を 拘束している目下のにない手、所有者として、極めて有意義な存在だからである。・・・(筆 者による略;これら幼児期状況が退行的な空想の所産すなわちそれは記憶の想起として再 生されるのではなく構成の産物であるという見解を持たなければ、現実の課題から逃れる ために空想活動があったのだと幼児期空想を処理して)分析の関心が現実生活に向けられ る第二治療期が挿入されることになるのであろう。このようにして行われる方法の簡略化、 したがってこれまで行われた精神分析治療の変更は技法上許しがたいもののように思われ る。もしこれらの空想を完全に患者に意識化させなければ、われわれはこれらの空想に拘 束されている関心を解放し患者が自由に支配できるようにすることは不可能である。もし われわれがそのような空想の存在とその一般的輪郭に気づくやいなや患者の注意をそらし てしまうならばわれわれは患者の抑圧をただ支持するに過ぎないことになる。しかもその 抑圧の働きによって、それらの空想は患者がどんなに努力しても触れることのできないも のになってしまう。・・・もし前もって患者に向かってそのような空想の価値を否定してお くならば、たとえばその空想は何ら現実的な意義を持たないものだと、患者に言っておく ならば、分析者はその空想を患者に意識化させるための分析への協力を決して患者から得 ることはできないであろう。したがって分析技法というものは、この幼児期の状況をどん なふうに評価しようとも、実際の治療上、正しい操作を行おうと志すかぎり決して変更してはならないものである。』 われわれは精神療法への抵抗あるいは陰性治療反応(NTR)の強い人々を困難患者であ ると言い慣れているが、翻ってフロイトの症例は、エミー・フォン夫人、狼男、等々、精 神病的、境界例とみなされるようないずれも極めて困難な患者であった。引用は、狼男の 症例においてフロイトが強調した技法の基軸である。こうして振り返ってみると、改めて’70 年代アメリカの精神分析から精神分析心理療法への転回は何であったのかと、ぞっとす る。時間空間構造を変えたウィークリー対面面接法は、フロイトが決して変更を加えては ならないとした技法の中核原理を揺るがしてはいないか。Kernberg (1982) が警戒してい たことだが、実際には精神分析心理療法は、力動的心理療法精神分析的支持療法、精 神分析志向の精神療法等々、様々な名称で多様に広がり、CCRT 法による支持—表現療法、 対象関係論による S. Mitchel の relational- theory、加えて現場対応力に強調点を置く AEDP(Accelerated Experiential Dynamic Psychotherapy)等々、多種多様なアプローチ が現れた。そうしたなかエヴィデンスが問われ、メタ心理学的世界の探求を飛ばし、現実 対処の第二の治療期に CBT がはまってそれが国策にまでなっている日本の現実は、まるで フロイトが予測していたかの如くである。

https://www.iadp.info/wp-content/uploads/2014/12/kotani2014.pdf

 

強迫性パーソナリティ 意識の上では従順だが無意識的には反抗的

 真面目で良心的で正直でやる気があり勤勉だが扱いにくいと定評がある。意識の上では従順なのだが、無意識的には反抗的である。

in and out program | 【強迫性パーソナリティ】

アメリカ大好きなのに英語の習得は拒む日本人、みたいな…